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<事故死から15年>32歳で早逝…天才ライダー・阿部典史が1996年日本GPで見せた歴史的優勝への独走、鈴鹿の全観客が祈った「ノリック、転ぶな!」 

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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photograph byMasato Daito

posted2022/10/07 17:04

<事故死から15年>32歳で早逝…天才ライダー・阿部典史が1996年日本GPで見せた歴史的優勝への独走、鈴鹿の全観客が祈った「ノリック、転ぶな!」<Number Web> photograph by Masato Daito

1996年日本GPで優勝を成し遂げたノリック。15年前の10月7日に亡くなった伝説的なライダーが鈴鹿を熱狂させた2つのレースを振り返る

ノリというすごいダートトラックライダーがいる

 ライバルのホンダ系チームからヤマハが引き抜くのも異例だが、シーズン途中で無名の新人がワークス入りするなど、当時のレース界の常識ではあり得ないことだった。

 この時代、日本人アスリートがまだ見ぬ地平を目指して海を渡り始めていたが、ノリックもまたその系譜につらなる。いや、スポンサーの威光に頼らず、大枚の契約金で迎えられた点で嚆矢と言えるだろう。

 グランプリ3連覇の輝かしい実績を持つレイニーは、ノリックのどこに惹かれたのか。

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 現在、ヤマハのデザイン部に籍を置く、桜田修司が当時を振り返る。

「彼は高校行かずにアメリカ留学してたでしょう。それですでにレイニーは『ノリというすごいダートトラックライダーがいる』と耳にしていたみたい。むしろ外国人のほうが彼をよく知っていて、新しいスター候補と見ていた。契約に至ったのは外国人トップの意向だけど、うちのエースライダーがケガをして、たまたま空きもでたんです」

 当時、現場の責任者だった桜田は、ノリックと激しく技術論を戦わせた。そのエピソードからは2人の近しさが伝わってくる。

「とにかくよく転んだからね。途中参戦した1発目のイギリスでもいきなり予選で骨を折って。一緒に救急車に乗りましたよ(笑)。彼はまさに感性で走るタイプで、細かなセッティングには無頓着だった。とにかく誰よりも速く走りたい。減速するのは負けだみたいな。不器用だけど、気持ちでは誰にも負けないというのが前面に出てて、それが彼の長所であり、短所でもあったんです」

#阿部典史
#バレンティーノ・ロッシ

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