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加藤一二三43歳から“21歳で名人奪取”、ライバル羽生善治の“七冠”を阪神大震災直後に阻止… 谷川浩司「光速の天才伝説」〈十七世名人〉 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/06/15 11:01

加藤一二三43歳から“21歳で名人奪取”、ライバル羽生善治の“七冠”を阪神大震災直後に阻止… 谷川浩司「光速の天才伝説」〈十七世名人〉<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

羽生善治九段と対局する谷川浩司九段

 谷川は後年に自戦記で、《簡単な即詰みがあったが、すぐに指せなかった。お茶をすすり、おしぼりで手の汗をぬぐった。指の震えをどうしても止められなかった。次の一手を指したとき、駒が升目にきちんと入らず、少しゆがんだ》と書いた。

 谷川八段は加藤名人を4勝2敗で破った。最年少記録の21歳2カ月で谷川新名人が誕生した。この記録は現在も更新されていない。

「名人位を1年間、預からせていただきます」

 谷川名人は終局後の記者会見で、「名人位を1年間、預からせていただきます」と語った。実力よりも地位が先行していることを、本人がよく分かっていた。

 谷川名人は1984年の名人戦で森安秀光九段を下して2連覇。1985年の名人戦で中原誠王将に敗れて名人を失ったが、1988年に中原名人を破って名人に復位した。1989年(平成元)に米長邦雄九段を下し、名人在位が通算4期となった。

 ほかのタイトルも数多く獲得した。1992年2月には4人目の「四冠王」(竜王・棋聖・王位・王将)になった。

 谷川時代が到来していた。終盤で最短の寄せで勝ちを目指す棋風は「光速流」と呼ばれ、谷川将棋の美学でもあった。そんな谷川の牙城に迫ってきたのが、若手精鋭の羽生善治だった……。

 谷川は1992年10月に神戸のホテルで、江尻恵子さんと結婚式を挙げた。出会ってから3週間あまりでプロポーズしたという。まさに「光速流」の寄せだった。同門の内藤國雄九段は祝辞で「これからは勝利の喜びは二倍、負けたときの悲しみは分け合ってほしい」と述べた。谷川は謝辞で「2人で新しい人生を築いていき、一歩一歩前進したい」と述べた。

2人が初めて出会ったのは40年前、羽生が小6の時

 1982年の春に小学生名人戦の決勝の対局がNHKで放送され、6年生の羽生善治が優勝した。解説者はA級棋士の谷川八段。それが谷川と羽生の初めての出会いだった。

 表彰式で大山康晴十五世名人は「これくらい指しますと、谷川さんを目標にして十分にやれる棋力じゃないかと思います」と挨拶し、羽生の強さを称えた。棋界の巨人は、後年の谷川と羽生の対決を、すでに見通していたのだろうか……。

 羽生は1982年12月、二上達也九段の門下で関東奨励会に12歳で6級で入会した。当時から天才少年と注目され、猛スピードで昇進を重ねた。そして、1985年12月に15歳2カ月で四段に昇段した。加藤、谷川に続いて、3人目の「中学生棋士」だった。

 羽生は1986年1月のデビュー戦で勝利した。終局後の検討では、谷川九段が羽生の後方からそっと見ていた。その光景は写真誌『フォーカス』に載った。

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