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「結果と注目度の差に自分がついていけなかった」本田真凜20歳が振り返る“浅田真央2世と言われたジュニア時代”《特別グラビア》
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byMiki Fukano
posted2022/05/30 11:03
フィギュアスケーターの本田真凜。「浅田真央2世」と呼ばれた天才少女の今に迫るロングインタビュー
2018年3月、本田は兄の太一とともに渡米を決意する。同月31日には自ら、拠点をアメリカに移すことを発表した。
「自分への扱いというのかな、見てきた方々や友だちからもいろいろな助言をもらって、『そうするか』と」
移った先は、ラファエル・アルトゥニアンコーチが指導するクラブだった。長い指導経験を持ち、当時はアシュリー・ワグナー、ネイサン・チェンらが在籍していた。
「すごく居心地がよかったです。誰も自分を知らないというのが、すごくよかった」
アメリカで過ごす中、数々のトップスケーターと練習するのも新鮮だった。
「間近で一緒に練習ができたり、してもらったことのない振付師の方に振り付けしてもらったり。いろいろな経験ができたのでほんとうによかったなと思います」
「結果と注目度の差に自分がついていけなかった」
ただ、抱えていた葛藤が消え去ることはなかった。場所を変えても、本田のあらゆる言動はそれだけでニュースになる。絶えず押し寄せる関心は、次第に苦痛を生んでいた。
「昔から勝負ごとに勝気なタイプではないんです。ジュニアの頃から、上手くいったらラッキーというような感じで練習してきて……。そのままシニアに上がって、結果が出なくなったけど、注目のされ方は全く変わらなかった。むしろ、他の選手だったら何か発言してもそのときだけのことだったりするのに、自分の場合は大きくニュースになったりすることも増えました。
今思うと、結果と注目度の差に自分がついていけなかったんだと思います。だからこの頃は、ひっそりといたいな、きついな、と常に思っていました」
出場する試合では、ジャンプでの失敗が目立つなどして成績を伸ばせないまま時間が過ぎていった。
「またジュニアの頃のように、元気いっぱいの演技を復活させることができるように頑張りたいと思います」
2019年のスケートカナダでの言葉をはじめ、振り返るとこの頃の本田はしばしば「ノービスの頃のように、ジュニアの頃のように」と話していたことを思い出す。
まさに、シニアになってからの本田の心境を物語っていたのだった。
撮影協力=明治大学駿河台キャンパス/撮影=深野未季
〈#2、#3に続く〉
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