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オリンピックへの道BACK NUMBER
“高橋大輔の同期で元ジャニーズJr.”小林宏一36歳が振り返る、もったいないと言われ続けた現役時代「これ以上の努力をする自信がなかった」
posted2022/05/28 11:01
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Yuki Suenaga
フィギュアスケートか、ジャニーズアイドルか――。どちらも選ばずに、両立させた現役時代。
「どっちも中途半端になっちゃったな」と振り返る小林宏一が、冷静に選手としての当時を振り返って思うことがある。
「正直、あんまり努力とか反復練習っていうのが好きな方ではなかったんです。ちょっとやればすぐジャンプも跳べて、試合でもたまたまできちゃったりすることも多くて……。それが『ああ、今まで全然やってなかったな』と気づかされた。すごく恥ずかしいことなんですけど、22歳になってやっとです」
22歳の挫折…あの選手の母が一言「1カ月名古屋に残ったら?」
きっかけは、本田武史、荒川静香、鈴木明子、本郷理華らを指導した長久保裕氏の名古屋合宿に参加した時のことだった。
「普通に滑って跳ぶのではなく、リンクの横を使ってどんどん跳んでいく『ラインジャンプ』という練習があるんですけど、なかなかコツを掴めずにむしろエッジ系のジャンプが跳べなくなっちゃって。そしたら、その横を無良崇人がなんなくトリプルアクセルとかを助走なしで跳びまくるんですよ(笑)。それを見て『あ、俺はもう無理だな』とはじめて思いました」
これまで選択肢すらなかったのに「やめよう」と思うほど打ちのめされた。その時、思わぬ人の一言が小林をフィギュアスケートの世界に留まらせた。
「ちょうど新横浜のリンクも使えない時期だったんですけど、なんて言ってやめようかなと考えていたら、安藤美姫のお母さんに『どうせ新横浜に帰っても滑れないから、1カ月名古屋に残ったら?』と言われて(笑)。その時は、『人の気も知らないで何言ってんだ』とか思ってましたけど(笑)、気づいたら(名古屋市内の)大須のリンクの近くのオースプラザっていうホテルに強制的に泊められていて」
生まれてはじめて「スケートが楽しい」と思えた瞬間
そのままあれよあれよと、安藤を育てたコーチ・門奈裕子氏に教わることになった。ところが、そこでの練習量が半端ではなかった。