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「結果と注目度の差に自分がついていけなかった」本田真凜20歳が振り返る“浅田真央2世と言われたジュニア時代”《特別グラビア》 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byMiki Fukano

posted2022/05/30 11:03

「結果と注目度の差に自分がついていけなかった」本田真凜20歳が振り返る“浅田真央2世と言われたジュニア時代”《特別グラビア》<Number Web> photograph by Miki Fukano

フィギュアスケーターの本田真凜。「浅田真央2世」と呼ばれた天才少女の今に迫るロングインタビュー

「6分間練習が終わってから出番までの間のときも、もうこれくらいの距離にカメラがたくさんいて、自分のしたいことが何もできないような感じでした」

 本田が手で示してくれたその距離は、1mにも満たない。実際、会場入りから会場を出るまで、たくさんのカメラが本田を追い続けた。この時、本田は15歳。それでもパフォーマンスに影響を及ぼすことはなかった。

「今振り返ると、自分でもよく集中してできていたなと思いますし、精神的な部分で強かったなと」

 落ち着いて過ごせていたこと、自然体であったのは、大会が終わって間もない頃、帰国してから行なった当時のインタビュー時にも伝わってきていた。

「ショートもフリーも、(トリプル)ルッツの前に会場内を鳥が飛んでいたんです。それも分かっていたくらい。ぱたぱたってはばたくのを見て、『おーっ』と思っていました」(2017年取材当時)

空前の本田フィーバーも「いちばん大変な1年間だった」

 どこまでも昇っていきそうだった足取りは、しかし、急ブレーキがかかる。きっかけは、高校入学と同時に果たしたシニア転向だった。

 この2017-2018シーズンは、平昌五輪を控えるオリンピックイヤーであった。本田には五輪代表への期待がより一層寄せられ、世間は“本田フィーバー”状態になる。

 幕を開けたシーズン。初戦のUSクラシックは優勝した本田だったが、続く初出場のグランプリシリーズのスケートカナダ、中国杯はともに5位。五輪代表最終選考大会の全日本選手権で7位にとどまり、五輪代表には届かなかった。成績以上に、演技そのものにどこか精彩を欠いたまま、運命のシーズンを過ごした。

 本田は当時を振り返り、こう語る。

「スケートをやってきた生活の中でもいちばん大変だったんじゃないかなと思う1年間でした。もう全日本選手権自体に出たくないと思うこともありました。シニアになって、徐々に自分が気づいていった感じかもしれないですね」

 気づいていった――。それは周囲の寄せる注目や期待、そこから来る重圧だった。世界ジュニアの時には全く気になっていなかったそれは、徐々に本田の精神を蝕んでいく。

「周りの、自分にとっては直接関係ない世間の人やメディアの方に、自分がどういう言動をしたら喜ばれるかなとか、そういうことばかり考えていました」

 そこには、フィギュアスケートにまっすぐ向き合えない日々があった。リンク外の環境にばかり苦しめられたわけではない。

 高校1年生でシニアになって初年度に迎えた大事なオリンピックシーズン。本来ならばスケーターとして成長をするための支えがより重要である時期に、それが得られない状況があった。思いをくじくような言葉に傷つきもした。それが遠くから向けられたものではなかったからこそ、傷は深かった。その中に身を置く本田の心象を象徴する言葉が「全日本選手権に出たくない」だったのだ。

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