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藤波辰巳vs木村健悟“伝説のワンマッチ興行”実現の舞台裏とは? 後楽園ホールに長蛇の列、敗れた木村は「死んだオヤジに申し訳ない…」
posted2022/04/14 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
プロレスの聖地・後楽園ホールはこの4月16日に「還暦」を迎えるが、その60年にわたる長い歴史の中でも、特筆に値する出来事があった。
受け身をとっても鈍い音を立てる、スプリングを抜いたマットのリングが用意された。1987年1月14日、後楽園ホール。観衆は2200人(超満員札止め)。ともに33歳、同い年の藤波辰巳(現・辰爾)と木村健悟が、決死の覚悟で挑んだワンマッチ興行での決着戦だった。
藤波vs木村、異例のワンマッチ興行が実現した経緯
当時、木村は自分の置かれた立ち位置に疑問を投げかけていた。早くから藤波がポスト猪木として浮上していた状況で、木村はその後塵を拝していた。
1978年12月、木村はメキシコのEMLL(現CMLL)でNWA世界ライトヘビー級王者になった。1980年7月にはブレット・ハートを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王者にもなった。
1982年にはヘビー級戦線に名を連ねたが、長州力らの人気に押され、陰としての扱いが続いた。1985年5月には藤波と組んでWWFインターナショナルタッグ王座を奪取し、同年12月にはアントニオ猪木、坂口征二組を倒してIWGPタッグリーグ戦に優勝したが、どうしても藤波の下に見られていた。
1986年12月にシングルマッチで藤波にあっさりと負けてしまった木村が、戦う姿勢を見せたのは、年が明けてからだった。
「上のものを食って、再浮上したい」
切実な思いでリングに立った木村は、藤波に向かっていった。
1987年1月2日、後楽園ホール。「無様な試合をしたらオレは日本を離れる」。木村はマイクを取って一方的にそう宣言した。
「オレが藤波に勝るものはパンチしかない」
パンチは反則だが、藤波を倒すにはそれしかないと木村は割り切っていた。木村はゴング前から藤波に突っかかっていった。藤波の場外での反撃で血まみれになった木村だったが、稲妻レッグラリアートを叩き込んで藤波をフォールした。16分2秒。
だが、その足に金具を仕込んでいたことが発覚して、無効試合の裁定になってしまう。