ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
新日本の“最優秀外国人”スコット・ノートンが明かした「ワイフと電話で号泣した日」…『水ダウ』で野性爆弾くっきーが替え歌、愛される理由
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/03/30 11:00
新日本プロレスのトップ外国人レスラーとして愛されたスコット・ノートン(1999年撮影)
のちにロード・ウォリアーズとなるホーク・ウォリアーことマイク・ヘグストランドとは、高校の同級生で一緒にウェイトトレーニングに励んだ親友同士。ホークの旧友には、盟友アニマル・ウォリアーをはじめ、リック・ルード、カート・ヘニング、ビッグ・ジョン・ノードなど、多くがプロレスラーとなる中、ノートンはアームレスリングのプロ生活を送っていたが、映画『オーバー・ザ・トップ』に出演した際にテリー・ファンクと出会い、またホークからの誘いもあったことで、89年にプロレスラーに転向。
29歳という遅めのデビューだったが、かねてから旧友ホークがさまざまな噂話をしていたため、プロレス入りした時点でノートンの名前はレスラーの間ですでに有名になっており、レジェンドであるリック ・フレアーに挨拶した際、「お前の話はよく聞いてるから、前からの友だちみたいな気分だよ」と言われたという。
筆者に明かした「マサ斎藤との思い出」
そして1990年に新日本プロレスに初来日。圧倒的なパワーと、長州力のラリアットを食らってもビクともしない強靭な肉体で強烈なインパクトを与え、早々に新日本のトップ外国人レスラーとしてレギュラーの座を勝ち取った。しかし、いくらパワーで圧倒してもプロレスのキャリアは浅かったため、メインイベントクラスで闘い続けるには多くの苦労もあった。そんなノートンを陰で支えたのが、当時の新日本の外国人担当だったマサ斎藤。以前、筆者がインタビューした際、ノートンはこう語っている。
「ニュージャパンでナンバーワンになる、しかも外国人レスラーでその位置に行くことはとても大変なことだった。もちろん努力もしてきた。そんな俺の背中を押して、ずっとサポートしてくれたのがマサだった。これは心から言うことだけど、俺とマサの関係は彼を『ボス』と呼ぶこと以上に親しいものがあったんだ。サーキット中の試合が終わったあと、『お疲れ様!』と言って一緒にビールを飲んだり、ラーメンを食べに連れていってくれたのは、いつもマサだった。
ただ、ビジネスには厳しかった。俺は試合が終わるといつもジェフ・ファーマー(NWOスティング)や、ハーキュリース(ヘラクレス・ヘルナンデス)たちと一緒にタクシーでホテルに帰っていたんだけど、ときどきマサが『スコット、おまえは俺と一緒に帰るぞ』って言う時があって、それは彼が個人的に俺と話をしたいときなんだ。そしてだいたい『お前、今日の試合は全然ダメだったよ』ってダメ出しが待ってるんだよ(笑)。でも、ホテルに着いてタクシーを降りたらそれで終わり。『ロビーで待ち合わせして、メシ食いに行くぞ』っていつも言ってくれてね。一旦ビジネスから離れると、友人として接してくれていた。