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「たぶん、死ぬなぁ」アジャコング51歳が明かす、“ブル・アジャ抗争”のウラ側…“生涯現役”へ「ジャイアント馬場さんの生き方をめざしたい」
text by
伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph byYuki Suenaga
posted2022/04/01 17:02
全女時代のブル中野との壮絶な過去を振り返ったアジャコング
「たぶん、死ぬなぁ…」壮絶な“ブル・アジャ抗争”の2年間
――ダンプ松本選手が1988年に、長与さんとライオネス飛鳥さんのクラッシュ・ギャルズが89年に引退したあと、全女の試合会場からは潮が引くように観客がいなくなりました。極悪同盟No.2だった中野さんが「獄門党」を創始して、アジャ選手は追従しましたが、90年に造反。同期のバイソン木村さんと「ジャングル・ジャック」を結成して、師匠と別々の道を歩みました。
アジャ 最初は、付き人からのスタート。そのころは自分が対等になるなんて思っていなくて、「超えれるもんなら超えてみろ!」って言っていた中野さんから赤いベルト(WWWA世界シングル王座)を獲って、「よく超えたね」って言われた(※92年11月26日、川崎市体育館)からこそ、今のアジャコングがある。
――90年から92年にかけて展開された“ブル・アジャ抗争”で、おふたりは何度も死が頭をよぎったそうですね。
アジャ 毎日ですよ。1日でホッとできるのは、試合が終わったその瞬間だけ。当時は、中野さんとの対戦カードがほぼ毎日組まれていて、「今日も生きて無事に終われた」と思って、家に帰って、お風呂に入って、寝たらまた朝が来る。朝が来たら、また闘わないといけない。「朝よ、来ないでくれ」と思いつづけた2年間だったので、「死ぬかもな」というより、「今日も生きていられて良かったな」でしたね。
――90年11月14日に横浜文化体育館で行なわれた2度目の金網デスマッチも、そんな気持ちで?
アジャ 4mほどある金網のてっぺんに立った中野さんを見上げたとき、あの場から動けない自分がいた。降ってきたらたぶん死ぬなぁと。でも、中途半端な避け方をして無様な死に方をするんなら、堂々と降ってこられたほうがいいと思ったんで、「逃げるもんか!」という思い。中野さんが落ちてきた瞬間、息ができなかったんですね。「死んだ……。あの世はうるさいとこだな」と思って目を開けたら、知ってる顔があったんで、「あっ、生きてる!」って。あの試合で、リング上で殴りあう・蹴りあうだけじゃなくて、プロレスで会話することを覚えました。それを教えてもらえたから、全女でトップに上りつめることができたんだろうなって。