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宮原知子24歳が現役引退 「努力する尊さを教わりました」日本女子フィギュア界で“努力のスケーター”が愛された理由
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2022/03/27 11:04
3月26日に現役引退を発表した宮原知子。絶望的な状況から平昌五輪代表を決めた涙の全日本選手権にて(2017年)
「オフの日であっても、しっかりアップはしています。いい演技ができたときの達成感、うれしさが自分の中でいちばん好きな瞬間であり喜べる瞬間です。そのためには練習しないといけないですし、自分の納得のいく演技をするというのが原動力になっているんじゃないかと思います」
次の言葉には自負があった。
「やらないといけないことをしっかりやろうと思う気持ちは、誰よりもいちばんあると思います」
幼い頃から指導してきた濱田美栄コーチの、「才能よりも大切なこと、努力する尊さを知子からは教わりました」という言葉を思い起こす。まさに努力の日々を重ね、歩んできた時間の反映が宮原の輝かしい競技成績である。
絶望的な状況でも「気持ちも変わりませんでした」
内面の芯の強さも示してきた。象徴的なのは、2017年1月に疲労骨折が判明し、世界選手権欠場など長期間スケートから離れざるを得なかったときだ。
その後、リハビリに取り組む中で体質面での問題も指摘され、医科学的な指導を受けつつ改善を図った。だが、復帰は容易ではなかった。ようやく氷上に戻ると、今度は右股関節骨挫傷を発症、リンクから離れざるを得なかった。再び練習を再開しても左股関節の痛みなど故障が続いた。
ときは平昌五輪を控えるオリンピックシーズンだった。代表を目指すには、「崖っぷち」とも言えた。濱田コーチが宮原に対し、「5年後を目指していきましょう。25歳でもオリンピックには出られるから」と提案したのも当時の絶望的な状況を物語っている。のちのちに悪影響を及ぼすようなことにはしたくないというコーチとしての思いもそこにはあった。
ただ、宮原にあきらめる気持ちはなかった。
「(代表選考最終大会の)全日本に合わせたいという気持ちも変わりませんでした」
流れを変えたのは、宮原自身だった。復帰戦にNHK杯を選び、5位の成績を残すと2週間後のスケートアメリカでは優勝を飾り、グランプリファイナル進出も決めたのだ。
ファイナルを経て臨んだ全日本選手権では優勝し平昌五輪代表に選出。宮原の、まっすぐな一念が生んだ鮮やかな復活劇にほかならなかった。