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[知られざる燕改造計画]関根潤三が実は蒔いていた常勝の種
posted2022/03/19 07:06
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
NIKKAN SPORTS
4位、5位、4位。数字を見れば、「強かった」とはとても言えない関根ヤクルト。しかし、あれから30年以上の時を経て当時の選手、コーチの記憶をたどると、違った姿が見えてきた。関根氏他界から2年、あの良き日々を振り返る。
「おい杉浦、悪いけどこのチームは勝ちにいかないからな……」
'87年、アメリカ・ユマキャンプ。監督に就任したばかりの関根潤三から告げられた言葉を、杉浦享は今でもハッキリと覚えている。突然のことに驚き、「どういうことですか?」と問うと、関根は淡々と続けた。
「この2、3年で選手を育てるために監督になったんだ。だから、どんなに成績が悪くても若手を使い切るつもりだから」
35年が経過した今、関根が発した言葉の真意を杉浦が推察する。
「当時、僕はプロ17年目でした。シーズンが始まって、若手中心のチームになったときに“どうしてこんな起用なんだろう?”と迷わないために、最初に言ってくれたんだと思います。それと、“若手に何か聞かれたら、どんどん教えてやってくれ”とも言われましたね」
監督就任前のチームは2年連続最下位。関根が見据えていた将来のスワローズを引っ張っていく若手の筆頭株は、当時3年目、24歳の広沢克己(現・広澤克実)、そして4年目、21歳の池山隆寛だった。
「若手育成」という大命題を実現するにあたってキーパーソンとなったのが、作戦コーチとして関根自ら招聘した安藤統男だ。
「その前年の'86年日本シリーズ、広島市民球場でのことです。ニッポン放送アナウンサーの深澤(弘)さんの仲介で、初めて関根さんにお会いしたら、“今度ヤクルトの監督を頼まれてるんだけど、アンちゃん、手伝ってくれない? ちょっとチームを変えたいと思ってるんだ”と言われました」