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渡部暁斗33歳、悲願の“個人で金メダル”へ…レジェンド荻原健司から受け取ったバトン《複合新旧エース》の深い結びつき
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byJMPA
posted2022/02/14 17:00
北京五輪スキーノルディック複合で3大会連続のメダルを狙う渡部暁斗。ノーマルヒルでは7位に終わったが、15日のラージルヒルで悲願の金メダルを目指す
92-93年シーズンにW杯総合優勝、世界選手権でも個人、団体の2冠を成し遂げた。前半飛躍で大きなアドバンテージを築き、後半距離で逃げ切るのが必勝パターン。翌シーズンも6戦5勝の強さで、94年2月のリレハンメル五輪に突入した。
ところが、大本命の荻原はまたしても個人でメダルなしに終わる。「普通にやれば勝てる、ミスしなければ絶対に金メダルが獲れる」。無意識のうちに守りに入ったジャンプで失速して6位と出遅れると、距離での追い上げも実らずに4位に終わった。団体戦は圧倒的な強さで難なく連覇しただけに、個人戦での失敗は痛恨だった。
やがて逆風も吹き始めた。この頃から日本に歯止めをかけるルール改正が実施されていく。日本の得意な飛躍の回数が減って、距離との得点比重も抑えられていった。
当時、W杯転戦中のホテルで行われた各国有志による選手ミーティングで、荻原は真っ先に手を挙げて「絶対に反対だ」と訴えたという。しかし流れは変えられなかった。自身のジャンプの不振も重なり、王者は次第に優勝から遠ざかっていく。
「切磋琢磨してきた仲間だと思っていた選手たちに、自分たちが勝てないのはルールのせいだと言われて。僕らのやってきたことが否定されるようだった。当時はすごく理不尽さを感じました」
長野は4位、ソルトレークは11位
開会式での選手宣誓を任された98年長野五輪では、健闘及ばずに4位。最後の五輪となった02年ソルトレークは11位。個人でのメダルにはついに届かず、「やり遂げられなかった」という燻りを抱えて現役生活にピリオドを打った。
「仕方がないから自分が納得するために都合よくいろいろ考えるわけですよ。あそこで金メダルを獲れなかったからこそ、若い選手に託す気持ちが出てきたんだとか。そうでないとバラエティー番組でも出てのんきにしていたかもしれないとか。いま競技の現場にいられるのは、あの時の悔いがそうさせているんじゃないかって」
後付けだったとしても、人間はそうやって運命と折り合いをつけて前に進んでいくしかない。幸運にも荻原には思いを託せる次代の担い手がすぐに現れた。