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宮原知子、絶望的状況からの平昌五輪代表に…「泣き言一つ言わなかった」コーチが明かす復活劇のウラ側《全日本フィギュアの神回》

posted2021/12/25 11:01

 
宮原知子、絶望的状況からの平昌五輪代表に…「泣き言一つ言わなかった」コーチが明かす復活劇のウラ側《全日本フィギュアの神回》<Number Web> photograph by Asami Enomoto

2017年の全日本フィギュア。圧巻の演技で初優勝、平昌五輪行きを決めたのは宮原知子だった

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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Asami Enomoto

 4年前のあの輝きがあせることはない。

 2017年12月23日、全日本選手権女子フリー。パーフェクトな滑りを見せた宮原知子は曲が終わった瞬間、両腕を突き上げた。

 圧巻の演技で優勝、平昌五輪代表をつかんだ宮原は、キスアンドクライ(選手が採点結果を待つ小さなスペース)でも、取材の場でも涙が止まらなかった。

 それも無理はない。一時は「オリンピックは難しい」と思われる状況からの栄冠だったからだ。

絶好調の翌年、宮原を襲った突然の異変

 2014-2015シーズンの全日本選手権で初優勝を遂げ同シーズンの世界選手権2位。次のシーズンにはグランプリファイナル2位、全日本選手権優勝。日本女子の中心にいた宮原が異変に襲われたのは、2017年1月のことだった。左股関節疲労骨折の診断を受けたのである。

 2月の四大陸選手権とアジア大会の欠場を発表した宮原は、回復を願って準備を進めたがかなわず、3月の世界選手権も欠場。国立スポーツ科学センターでのリハビリを余儀なくされた。

 だが、復帰は容易ではなかった。氷上に戻り、夏場にはジャンプの練習も再開したが、右股関節骨挫傷を発症し、リンクから離れざるを得なかった。また、練習を再開しても左股関節の痛みが出る。出場を予定していた10月のフィンランディア杯も欠場を強いられた。

五輪出場は絶望的…コーチも「5年後を目指しましょう」

 

 たいがいの人なら平常の心ではいられないだろう。しかも平昌五輪を控えるオリンピックシーズンでもあった。なおさら焦りが募っても不思議はない。

 危機的な状況にあったことは、フィンランディア杯欠場を決めた頃、指導する濱田美栄コーチが宮原にかけた言葉にもうかがえる。

【次ページ】 チャンスは全日本選手権のみ「優勝しないわけにはいかない」

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