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宮原知子、絶望的状況からの平昌五輪代表に…「泣き言一つ言わなかった」コーチが明かす復活劇のウラ側《全日本フィギュアの神回》
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2021/12/25 11:01
2017年の全日本フィギュア。圧巻の演技で初優勝、平昌五輪行きを決めたのは宮原知子だった
「5年後を目指していきましょう。25歳でもオリンピックには出られるから」
のちのちに悪影響を及ぼすような無理はさせられない。五輪代表選考の最終大会である全日本選手権までの時間を考えても、その状態から五輪代表を目指すのが困難であるのは、誰もが思うことでもある。
ただ、コーチのアドバイスに静かに耳を傾けながら、宮原は違う思いでいた。
「自分としては平昌オリンピックを諦めていませんでしたし、全日本に合わせたいという気持ちも変わりませんでした」
その思いに応え、「全日本選手権の前に一度は大会を」(濱田コーチ)と、復帰戦に選んだのが11月のNHK杯だった。11カ月ぶりの実戦の舞台を、宮原は5位で終える。宮原はほっとしたように語った。
「やっとここまで来ることができたんだなと思いました」
そこから流れが変わっていく。
チャンスは全日本選手権のみ「優勝しないわけにはいかない」
2週間後のスケートアメリカにも出場すると、グランプリシリーズで2シーズンぶりの優勝。グランプリファイナルにも進出し5位。
こうして迎えた全日本選手権には必勝を期して臨んだ。
「今回は優勝しか出場への確実な道がないという中で、優勝しないわけにはいかないという強い気持ちがありました」
自らへの重圧にもなりかねない強い思いを貫いての優勝だった。
なぜ宮原は「劇的な復活」を成し遂げたのか?
あらためて思う。何があの劇的な復帰へと導いたのか。根本をなした食生活の改善に始まる、広い意味での回復のための努力を怠らなかったのは言を俟たない。その上で、濱田コーチの言葉が理由を示唆している。