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プロ野球PRESSBACK NUMBER
落合博満「上級生から殴られるのが嫌だった」東洋大中退からロッテ・ドラ3への6年間…落合は18歳~25歳のプロ入団まで何をしていた?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/12/09 11:04
ロッテ時代の落合博満(1983年撮影)。1972年に秋田工高卒業後、東洋大中退、東芝府中を経て、1978年ドラフト3位でロッテ入団
もっとも、本人は《「これを教えたら最後、アイツ、メチャメチャ、自分のライバルになるんじゃないか」という発想は、オレには全然ない。別に今の考え方がオレの財産だとは思っていないからね》と、まるで意に介していない。実際、当時より他球団の打者やコーチから意見を求められては、躊躇なく応じていた。それでも他の追随を許さなかったことは、3度の三冠王を獲っていることが何より証明している。
落合の自信は、自分に一番合った方法を自ら考えながら見つけ出し、それを体得した上で、確実に結果を出したというところから来るのだろう。そうやって一度身につけたバッティングも合わなくなってきたら、また考えて変えてしまう。いくらでも考えられることこそが彼の強みであった。本書を通じて彼が言っているのも、つまるところ「プロたる者、何事も自分で考えろ」ということに尽きる。
「上級生から殴られるのがいやだった」
そんな落合だが、本来はプロ野球選手になるつもりなどまったくなかったというのが面白い。本書でくわしく書かれているとおり、プロに入るまではドロップアウトの連続だった。秋田工業高校の野球部では、上級生から事あるごとに殴られるのがいやで、やがて練習をサボるようになった。高校卒業と同時に東洋大学の野球部に入ったものの、ここでも部の古い体質が気に入らず、入学式を前に合宿所を飛び出す。それから秋田に帰って2年間をすごした。一時は兄が支配人をしていたボウリング場に入り浸り、プロボウラーになろうと考えたこともあったという。
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社会人野球の東芝府中に入ったのも、そもそもは20歳を目前にしてそろそろ働かねばと思ったからだった。臨時工として入社してしばらくは毎日朝から夕方までみっちり仕事をし、野球で飯を食おうという気はまったくなかった。1年後には、給料が安いなどの理由で一旦はやめようと決心したという。姉から怒られて思いとどまったが、2年後もまたやめると言い出した。このときも泣きつかれ、3年後はさすがにやめると言わなくなる。野球部で四番打者に定着したのはこのころだった。当時の東芝府中は弱小チームで、好きにやらせてもらえたおかげもあり、落合は頭角を現す。入社3年目には南関東大会で優勝、MVPに輝き、都市対抗野球にも初出場する。
10球団から誘い…スカウト全員に「おたくへ行きますよ」
結局、都市対抗には3度出場し、入社5年目の1978年にはイタリアでの世界アマチュア野球選手権の全日本チームのメンバーにも選ばれた。プロからはその前年に阪神より誘いがあったが、ドラフト会議では指名されず、これでまず自分がプロ入りすることはないと思ったという。