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落合博満「ラクして勝て」「契約更改は個人経営者同士の戦い」星野監督との《確執説》や“3億円”年俸調停… 中日でのオレ流伝説
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
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posted2021/11/15 17:03
中日ドラゴンズ時代の落合博満。名古屋の地でも数々の伝説を残した
そんな「球界の盟主」巨人だが……当時、世間的にはグラウンド内だけでなく、主力選手の女性問題が大きな話題となっていた。ただ落合は「別に門限破ったっていいじゃないか」などと持論を存分に展開したのだった。
中日移籍で日本人初となる1億円プレーヤーとなった落合は、名古屋の地でも存分にその打棒を発揮する。移籍1年目は主要個人タイトルこそ逃したものの、首位打者とは2厘差の打率.331、28本塁打、85打点をマーク。そして翌88年には打率.293、32本塁打、95打点で中日の6年ぶりとなるセ・リーグ制覇に大きく貢献した。
星野監督との《確執説》が報じられても
<名言3>
開幕ダッシュというのは球団と自分の両方の利害が一致しているからいいんだ。問題は、チームが不振で負けが込んで来た時にどう変わるかの問題なんだ。タイトル争いってそんなもんだよ。
(落合博満/Number264号 1991年3月20日発売)
◇解説◇
三冠王から優勝請負人となった落合。しかし「平成」の世の中になって間もない1989年1月、またしても世間を騒がす出来事が起きる。
中日の首脳陣はキャンプインに向けて体重管理を厳格に課したものの、落合が自主トレ初日に“マイペース調整”を宣言。さらに意味深なコメントを残したことによって、スポーツ紙などのメディアが星野監督との《確執説》を大きく並べ立てた。球団や選手会も対応に躍起になった騒動は落合が罰金を払い、星野監督への謝罪と二軍キャンプ行きという形で一応の決着となったという。
しかしシーズンが始まれば、落合は落合だった。
8月12日の巨人戦では9回途中までノーヒットノーランだった絶対エース斎藤雅樹を相手に、逆転サヨナラ3ラン本塁打を叩き込んだ。なおこの一撃は当時、県立岐阜商業の高校2年生だった和田一浩も強烈に印象に残っていると語るなど、「勝負師・落合博満」を象徴する瞬間として今も語り継がれている。
シーズン全日程を終え、落合の残した成績は打率.321、40本塁打、116打点。チーム成績は3位にこそ終わったものの、前年の成績を大きく上回るだけでなく、史上初の両リーグ打点王のおまけつきとなった。そんな落合を、星野監督は主砲として起用し続けた。それこそがプロフェッショナルな関係性だったのだろう。
冒頭の発言は中日で5シーズン目を迎えようとしていたタイミングでのもの。自らが打つことこそが、チームに勝利を呼び込む最善手――そこには双方、一流のプライドを感じさせる。