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貧しい生い立ち→10代でゴール量産も「Jリーグ、ムリ」や“227分でイエロー1枚”… 超人な問題児フッキの強烈すぎ半生
 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byJ.LEAGUE

posted2021/08/20 11:01

貧しい生い立ち→10代でゴール量産も「Jリーグ、ムリ」や“227分でイエロー1枚”… 超人な問題児フッキの強烈すぎ半生<Number Web> photograph by J.LEAGUE

札幌や東京VなどJリーグでも大暴れしたフッキ

 10歳でフットボールスクールに入ったが、一家は貧しく、やがて月謝を払えなくなった。これを見て、彼の才能を惜しんだ監督が月謝を肩代わりしてくれた。のみならず、対外試合に出場するための交通費や食事代も負担してくれた。

 監督は、「彼は『絶対にプロになる』と心に決めていて、チームの誰よりも練習した。自分のチームの練習だけでなく、頼み込んで別のチームの練習にまで参加していた」、「大変な負けず嫌いで、試合で負けていると、よく泣きながらプレーしていた」と当時を振り返る。

 この監督のことをフッキは「生涯の恩人」と呼び、今でも親交がある。

15歳の頃、ホームシックでこっそり泣きながら

 1998年、12歳のとき地元の小クラブのU-13に入り、代理人の仲介で15歳でポルトガルへ渡ってポルト郊外に本拠を置く小クラブのU-17に加わった。プロ選手を目指して欧州、アフリカ、中南米からやってきた少年たちと鎬を削った。

 15歳といえば、日本ではまだ中学3年だ。ホームシックになり、夜、選手寮のベッドの中でこっそり泣きながら、懸命に練習した。しかし、当時は目立った存在ではなく、プロ契約をしてもらえそうになかった。

 2002年、ブラジルへ帰国して名門サンパウロFCのU-17に加わる。しかし、ここでもレギュラーになれない。そこで、生まれ故郷に近い北東部サルバドールに本拠を置くヴィトリアのU-17へ移り、2004年、17歳で念願のプロ契約を結んだ。

 とはいえ、トップチームでの立ち位置は控えのまた控え。ブラジルリーグで2試合に途中出場し、無得点だった。2005年1月、川崎フロンターレから1年間の期限付き移籍のオファーを受けると、18歳で「全く何の知識もなかった」(本人)日本へ渡った。

異常に多かったイエローカード

 この頃、川崎FにはFWジュニーニョ、FWマルクス、MFアウグストと経験豊富で実績もある3人の外国人選手がいた。フッキは彼らの控えで、リーグ戦で9試合に出場して1得点。天皇杯、ナビスコ杯(現ルヴァンカップ)を含めると、12試合に出場して3得点だった。

 日本とブラジルの気候、食事、言語、習慣、プレースタイルなどの違いに戸惑ったが、最も神経質になったのは審判の判定基準の違いだった。

 自分では押したつもりがなくても、パワーの塊のような体だから、少し接触すればすぐに日本選手が倒れて反則を取られる。審判にポルトガル語で抗議すると、それがたちまち暴言と受け取られ、イエローカードを出される……。出場した12試合の実に半数の6試合で、イエローカードをもらった。アタッカーとしては異常な多さである。

【次ページ】 転機は札幌、ヴェルディへの期限付き移籍

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