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記録に残る大名人・大山康晴vs記憶に残る新手一生・升田幸三… 戦争から生き残った昭和二大棋士の“意外と知らない逸話”って?
posted2021/06/13 17:00
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Kyodo News
大山康晴十五世名人と升田幸三実力制第四代名人は、昭和棋界の巨頭としてタイトル戦で幾たびも激突し、将棋史に残る名勝負を繰り広げた。両者は盤外でも張り合い、ともに歩み寄れない確執があったようだ。ただ大山と升田は、関西棋界の重鎮だった木見金治郎九段の門下の兄弟弟子で、同じ釜の飯を食った間柄であった。
昭和初期の1932年、広島生まれの14歳の升田が大阪の木見道場を訪ねて内弟子になった。それから3年後、岡山生まれの12歳の大山が同じく内弟子になった。大山は入門当初、兄弟子の升田に厳しい稽古で負かされ、「田舎に帰って百姓でもしろ」と辛辣な言葉を浴びせられた。その物言いは、新弟子が受ける洗礼だった。
大山は木見道場での内弟子生活で、掃除、新聞の将棋欄の切り抜き、師匠が書いた原稿を新聞社に届けるなど、こまめに働いた。やがて対局料や指導料を得ると、手を付けずに師匠の夫人に渡した。
升田は一門の用事をあまり手伝わなかった。囲碁を並べたり煙草を吸ったりして、気ままに過ごした。訪問客に酒を出すときは、用意した別の器にこっそり注いで飲んだ。若い頃から酒豪だった。
升田と大山の内弟子生活は対照的だったが、ともに切磋琢磨して棋力を伸ばしていった。「打倒木村」を共通の目標とした。
南太平洋の孤島で打倒木村名人を思い続けた升田
戦前の将棋界は、東京の木村義雄名人が無敵を誇っていた。将棋大成会(日本将棋連盟の前身)の運営も会長として仕切っていた。木村は教養が豊かな人格者だったが、強権的なところがあり、東京と大阪の棋士の待遇に差をつけた。
升田は師匠の木見の不遇を見るにつけ、木村に敵愾心を強く燃やした。しかし、戦争が激化すると、将棋を指す環境ではなくなった。升田と大山にも召集令状がきた。