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ヤクルト前身球団の“消えた野球場”…JR三鷹駅にあった国鉄スワローズの「幻の巨大スタジアム」、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2021/06/13 11:02
1950年に球団が創立された「国鉄スワローズ」。その巨大スタジアムは三鷹駅にあった
スタンドの跡やホームベースなどはもちろんどこにもなくて、他にここに野球場があったことを伝えるものは団地を取り囲むカーブをした道路くらいだ。きっとこの道路は、野球場の外周道路だったのだろう。
今は団地に生まれ変わっている武蔵野グリーンパーク野球場。それはどのような野球場だったのか。調べてみると、開場当時は新聞などに「東日本一の野球場」と謳われていたという。何しろ両翼91.4m、中堅128.1mという今の国内の野球場と比べても圧倒的な広さを誇り、収容人数は5万1000人(一説には7万人とも)。つまり、天下の甲子園球場もびっくりの巨大なスタジアムが三鷹にあったのである。
70年前、なぜ三鷹に野球場を作ったのか?
武蔵野グリーンパーク野球場が開場したのは1951年のこと。前年に誕生していた国鉄スワローズが主に使うことを想定しており、観客輸送のための路線も時を同じくして誕生。野球開催日のみ運転される臨時列車専用路線だったようだ。
といっても、いくら国鉄でも自らの(正確には国鉄の外郭団体が出資)球団のためにゼロから線路を敷くほどお人好しではない。というか、そんなことをしたら政治家もびっくりの我田引鉄。今の時代だったら大炎上間違いなしである。もちろん当時の国鉄にもそんな余裕はないわけで、この野球場への路線(武蔵野競技場前支線)は既存の線路を活用して設けられたものだった。
戦前から戦時中にかけて、野球場のあった一帯には中島飛行機の軍用機エンジン工場(武蔵野製作所)が広がっていた。いわゆる軍需工場である。当時の工場生産品の輸送は鉄道に依っていた部分が多く、工場への専用鉄道が敷設されるのが常だった。中島飛行機の工場にも専用線が敷かれていたのである。戦後の野球場への線路はこの専用線跡地を再利用した、というわけだ。
野球場そのものも中島飛行機の工場跡地に生まれている。戦後、軍事関係の施設はことごとく進駐軍に接収されてしまって、中島飛行機の跡地も西側は米兵たちの住宅団地に生まれ変わっていた。残った東側がいち早く返還されて、そこに野球場が作られたのだ。