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ヤクルト前身球団の“消えた野球場”…JR三鷹駅にあった国鉄スワローズの「幻の巨大スタジアム」、今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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posted2021/06/13 11:02

ヤクルト前身球団の“消えた野球場”…JR三鷹駅にあった国鉄スワローズの「幻の巨大スタジアム」、今は何がある?<Number Web> photograph by KYODO

1950年に球団が創立された「国鉄スワローズ」。その巨大スタジアムは三鷹駅にあった

 当時、進駐軍に接収されていた施設は軍事施設だけに限らず、明治神宮野球場も米軍の管理下に置かれていた。神宮球場が使えない以上、他に使える都内の野球場は後楽園球場が精一杯。あとはせいぜい上井草球場くらいである。そんなところにプロ野球も2リーグに分かれて球団数が増え、隆盛期を迎えようとしていた。たくさんのお客が来てくれるはずの首都圏でも、圧倒的に野球場が足りていなかったのだ。そこで“新球団”国鉄のための球場として、進駐軍から返還された元軍需工場の更地に目がつけられた。そうして生まれたのが、武蔵野グリーンパーク野球場である。

16試合だけ…たった1年で使われなくなった理由

 武蔵野グリーンパーク野球場、経営していたのはその名も東京グリーンパーク株式会社。野球場の正式名称は「東京スタディアム」といったらしい。社長は東海大学創設者の松前重義、役員には武者小路実篤や近衛秀麿が名を連ねていたというからなかなかのものだ。かくして5万人規模の巨大スタンドと日本一レベルの広大なグラウンドを擁して、武蔵野グリーンパーク野球場は1951年5月5日こけら落とし。国鉄スワローズと名古屋ドラゴンズの試合が行われ、6対3で国鉄が勝利、あの400勝投手・金田正一が勝ち投手になっている。

 ところが、当初は年間180試合を目標にしてナイター用の照明も設けたというのに、ここで行われたプロの試合はたったの16試合にとどまっている。アマチュアの試合を含めてもわずか66試合。そして翌1952年からはもうプロの試合で使われることはなくなって捨て置かれ、1959年には廃止されてしまった。

 豪華絢爛の設備を誇った東日本一の野球場がなぜわずか1年で消えたのか。どうやら、地盤の緩い関東ローム層の上に突貫工事で作ったために芝が根付かず、風が吹くと砂埃まみれになるほどの悪環境だったという。時には試合も中断したというから野球をするには劣悪すぎる環境である。それに、当時の人にしてみれば都心から遠い辺境の地。できることならば、選手も観客もここで砂埃にまみれながらの野球はしたくないし見たくなかったのだろう。

 さらに1952年には神宮球場の接収が解除され、川崎には川崎球場が誕生。武蔵野グリーンパーク野球場建設のきっかけだった“球場不足”が解消されてしまったのだ。そうなれば、わざわざ砂埃まみれの遠い地で野球をする理由は見当たらない。当時はまだフランチャイズ制が導入されておらず、少しでも集客力のある球場で試合をするのが常だったから、国鉄スワローズといえども武蔵野グリーンパーク野球場に固執する理由はなかったのである。

 そうして野球場はたったの1年で役割を終えて、同時に球場への観客輸送を担った鉄道路線もいつしか廃線となった。球場は1956年に解体されて跡地は団地に生まれ変わり、廃線跡は遊歩道に。わずかに当時の面影が残っているとはいえ、意識しなければ気がつくようなものでもない。団地の隣(つまり球場跡の隣)には武蔵野市役所が建ち、武蔵野市の陸上競技場や軟式野球場もあるが、それらはもちろん武蔵野グリーンパーク野球場とは関係がない。「緑町」という地名が、当時ここに“グリーンパーク”があったことをかろうじて伝えているだけだ。戦争と、それに次ぐ混乱の時代に生まれたたった1年だけの野球場。三鷹には、そんな歴史も刻まれているのである。

(写真=鼠入昌史)

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