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<失われたセンバツ>磐城高のあの“号泣監督”が県高野連の理事長になった「全球児は甲子園を絶対に目指すべきです」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph bySankei Shimbun
posted2021/05/14 17:10
昨年夏の甲子園での交流試合。前監督の木村保(現福島県高野連理事)が試合前の守備練習でノックを行った。ノッカーとしての参加が認められており、涙をぬぐいながらバットを振った
磐城OBが福島商で勤務するという奇妙な構造になったとはいえ、木村は野球部で指導をしていない。本分は数学の教師として教壇に立つことであり、野球に携わる者としては高野連の一員としての業務に従事する。
昨春の時点で49歳。指導者としてまだ若く、木村も「野球を教えられないことの物足りなさはありますよ」と漏らす。その想いを断ち切り、福島県の高校野球発展に尽力すると決めた背景には、先人たちの意志の継承、そして、野球への恩返しがあるのだという。
「福島県の野球界に恩返しをしたい」
福島県を中心に磐城OBの高校野球指導者は多く、木村は教師になりたての頃から先輩たちの影響を強く受けていた。
内郷(現いわき総合)の野球部部長時代に師事していた監督、助川隆一郎は、県高野連の副理事長として強化部を新たに立ち上げるなど、下地を築いたひとりだった。71年夏の甲子園準優勝メンバーで、現理事長の木村の2代前にあたる宗像治は、2011年の東日本大震災による福島第一原発事故で風評被害に喘ぐなか、夏の福島県大会の開催を実現させた。彼ら以外にも、多くの磐城出身指導者の姿に感化されてきた。
ちなみに11年、木村は須賀川の監督として夏の福島大会でチームを準優勝へと導いている。この時、野球部の部長を務めていたのが、前理事長の小針淳だった。副理事長就任後、木村は日本高野連とのパイプ役、現場との連携を強める小針の背中に触れた。
まるで点と点が線になるように、新理事長となった木村に強い責任感が芽生える。
「多くの先輩方と一緒に仕事をさせていただき、『福島県の野球界全体のことを考えてくださっているんだな』とずっと感じていましたし、自分も現場でそれなりに経験を積んできたなかで『何か関われることがあれば』という気持ちは心のなかに持ち続けていたんです。そこで去年、副理事長という立場で理事長の小針先生と仕事をさせていただくなかで、お世話になりましたし、ご苦労されている姿も見てきました。今年から理事長という仕事を受け継がせていただくので、『現場での経験を活かして、野球界に恩返しをしたい』と言いますか、身が引き締まる思いです」
「学校側の事情」で出場辞退するチーム
副理事長として痛感した小針前理事長の「苦労」。そのひとつが、現在も終息の気配が見えない新型コロナウイルスの感染対策で、引き続き最重要課題として取り組んでいる。