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《松山英樹はどんなキャリアを?》小1で青木功の練習見学、中1・石川遼の衝撃、米国で丸山茂樹への敬意…「覆せた」の真意とは
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph bySankei Shimbun
posted2021/04/15 17:01
先人たちや同世代、支えてくれた恩師や父の思いを背負ってオーガスタに挑んだ松山英樹。試合後には感謝のコメントを残した
小学生時代に大きなタイトルこそなかったが、松山の将来性に目をつけたのは高知・明徳義塾の高橋章夫監督(当時)だった。松山が地元の公立中に通っていた1年生のとき「3年生になる頃には全国の高校から注目されることになる」と同中学への編入を勧めた。
全国大会にも出場した中学時代の衝撃のひとつが同い年のアマチュアゴルファーだった。
「1年のときに初めて回ったんですけど、ドライバーで40yd以上置いて行かれた。こんなやつがいるのか……」
当時ジュニアゴルフで名を轟かせていた石川遼のことである。
そのインパクトは高校入学直後に、想像の範疇を越えた。2007年5月、石川は日本のプロツアーで15歳にして優勝。その2カ月ほど前にアマチュアの大会で一緒に回っていた松山は「すごいなあと思ったけれど、悔しかった」と振り返る。石川がプロになった後も、アマチュアとして出た同じ大会もあったが、とても歯が立たなかった。
“待った”をかけた東北福祉大・阿部監督
全国高校選手権、日本ジュニアで“日本一”のタイトルを手にし、早くから高校卒業後のプロ転向を志していた松山だったが、3年生のときに出場した日本アマチュア選手権で予選落ち。いささか将来への不安も覚えていたころ、“待った”をかけたのが東北福祉大の阿部靖彦監督だった。
「今のままでは並のプロにしかなれない。もっと練習を積み重ねなさい」という言葉から、松山は学生日本一のチームに加わった。谷原秀人、宮里優作、池田勇太らを輩出した名門ゴルフ部。松山にとっては2つ上の藤本佳則(日本ツアー2勝)が間近の、大きな目標になった。