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《松山英樹はどんなキャリアを?》小1で青木功の練習見学、中1・石川遼の衝撃、米国で丸山茂樹への敬意…「覆せた」の真意とは
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph bySankei Shimbun
posted2021/04/15 17:01
先人たちや同世代、支えてくれた恩師や父の思いを背負ってオーガスタに挑んだ松山英樹。試合後には感謝のコメントを残した
キャリアの大きなターニングポイントは入学した2010年の秋に訪れた。欠場者が出たことで繰り上がり出場した埼玉・霞ヶ関カンツリー倶楽部でのアジアアマチュア選手権で優勝。翌2011年のマスターズにアジアの代表として出場することが決まった。
「オレ、マスターズに行けちゃうの……?」
実際、このアマチュア競技が始まったのは前年2009年で、このルートでオーガスタにたどり着いた日本人は松山が初めてだった。
そこからは怒涛のストーリーの始まり。翌年3月11日、東日本大震災が発生。オーストラリアでのゴルフ部の合宿から帰った母校がある仙台は被災地になっていた。葛藤を抱えながら出場したマスターズで、アジア人として初めてローアマチュアを獲得する快挙を達成。同年に日本ツアーの三井住友VISA太平洋マスターズも制して、一躍「プロより強い学生アマ」という地位を築いた。
憧れのレジェンドたちとの縁
2013年にプロに転向。ヒーローを取り巻く縁とは不思議なものだ。
小学生のとき、恐る恐る近づいたレジェンドたちとは選手としてぶつかるようにもなった。ルーキーイヤーの松山は、国内ツアー2戦目のつるやオープンでプロ初優勝。その試合で初日に62をマーク、エージシュート(年齢以下のスコアで18ホールを回ること)を達成したのがジャンボ尾崎だった。最終日に肩を組んで収まった記念写真。そしてあの試合以来、尾崎はツアーで決勝ラウンドに進出していない。
その1カ月後、松山はダイヤモンドカップで次の優勝を飾った。最終日最終組で相対したのは中嶋で、ツアーの最年長優勝記録の更新を阻んだのだった。翌年PGAツアーで初優勝を挙げたメモリアルトーナメントはジャック・ニクラスのホスト大会。青木がかつて米国で激闘を演じた“帝王”の庭で、新しい時代の扉を開いた。