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ベンゲルが受けた圧力と“非国民”扱い… 自伝に書いていない“八百長事件”マルセイユとの闘争、日本への「亡命」
text by
フローラン・ダバディFlorent Dabadie
photograph byTakao Yamada
posted2021/03/22 11:02
グランパスで指揮を執っていた頃のベンゲル。ストイコビッチらを活用し、Jリーグに旋風を巻き起こした
マルセイユの会長と憎しみ合っていた
ベンゲルは87年にモナコの指揮官に抜擢され、1年目からリーグ王者になりました。さらにトップチームを強くするにとどまらず、クラブ全体を根本的に変えます。たった数年間でモナコにフランス有数の育成システムをもたらしたのはベンゲルです。
98年のW杯優勝メンバーになるアンリやトレゼゲ、プティ、テュラムも彼が見出しました。こうしてフランスサッカー関係者から最高の評価を得たベンゲル監督ですが、メディアや世論から見ると、常にマルセイユの陰に隠れていました。
モナコが91-92シーズンのUEFAカップ・ウィナーズ・カップで準優勝すると、マルセイユは翌年のチャンピオンズ・リーグを制覇します。しかし、ベンゲルはマルセイユに対していつも懐疑的でした。マルセイユの会長だった大富豪ベルナール・タピとは憎しみ合う関係でした。その理由は、ドーピングや八百長疑惑、手段を選ばない勝利至上主義的なプレースタイルなどにありました。マルセイユは、ベンゲルのサッカー理念に反するクラブだったのです。
暗黒面に染まったマルセイユに納得できなかった
ベンゲルは長期のビジョンを持ち、育成システムやスタッツ研究、栄養学など、現代サッカーのトレンドとなっている分野を80年代後半から追求する、とんでもない洞察力の持ち主でした。
一方、マルセイユは短期のビジョンを重視し、5年以内にミランを破って世界一になるという野望の塊。マルセイユは大金を注いで次々とモナコの選手を引き抜き、それが出来なければ、相手選手たちを買収して八百長していたと当時の関係者が暴露しました。ベンゲルは暗黒面に染められたマルセイユのやり方に納得いかず、フランスサッカー連盟の助けを求めましたが、全く相手にされませんでした。マルセイユの選手はフランス代表のバックボーンでもあったためです。
実は当時、大人気チームだったマルセイユを批判するフランス人サッカー愛好家やメディアは誰もいなかったのです。マルセイユはメディアにとっても、ビッグビジネスでした。