欧州サッカーPRESSBACK NUMBER
バルサ暗黒期を現地記者が回想 フィーゴの謀反、不遇サビオラ、再任ファンハール大失敗…“最悪の会長”伝説
text by
ジョアン・ポキ(ムンド・デポルティーボ記者)Joan Poquí(Mundo Deportivo)
photograph byGetty Images
posted2021/02/16 06:00
リバウド、サビオラ、クライファートは“トリデンテ”と呼ばれたが、当時のバルサは彼らを生かしきれていなかった
指笛と不快感に包まれた2年目を終えると、ガスパールは驚くべき“自殺行為”に出た。けんか別れした選手たちの多くがまだ残っているにも関わらず、あろうことかファンハールを呼び戻したのである。
この時点で既にバルサは3シーズンも無冠が続いていた。クラブ史上最悪の時代と言われた1960年代でさえ、それほど長く1タイトルも獲れないことはなかっただけに、さすがにこれ以上事態が悪化することはないように思われた。
ファンハール再任、コメディーのような逸話
しかし、ガスパールに不可能はなかった。さらに2年も無冠は続いたのだ。
ファンハールの再任に関しては、まるでコメディー映画のようなエピソードがある。就任会見の席上で公表された、英雄ラディスラオ・クバラの死である。
ファンハールのプレゼンテーションに感傷的なムードをもたらすべく、クラブは情報の公開を意図的に遅らせたのではないか。当時はそんな悪意ある憶測がまことしやかに飛び交った。
確かにガスパールにはそのような演出ができたかもしれない。だが問題の核心は、レアル・マドリーが1998年以降3度目のCLを制したのと時を同じくして、バルサでは一時代を築いたレジェンドが亡くなり、かつファンハールが再任するような迷走が続いているという現実にあった。
リケルメのプレゼンテーションも記憶に残るエピソードだ。リケルメは一部の役員が監督に推していたカルロス・ビアンキの助言により、会長主導で獲得した選手だった。そのプレゼンテーションに同席したファンハールがはじめにやったのは、「彼は私が求めた選手ではない」と発言することだった。
2002年夏、ファンハールは最終的にマドリーに加入するロナウドのレンタル移籍も拒否したのだが、それはメンディエタの獲得を優先するためだった。オランダ人指揮官にとって、メンディエタは1990年代にバルサを大いに苦しめた死刑執行人のような存在であり続けていたからだ。このシーズンはさらにエンケが加入し、ソリンもレンタルで加わっている。もはや感動的ですらある。