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レジェンドOB中山雅史が磐田コーチ就任 「2人に負けないために…」意外過ぎる“ガムシャラプレー”誕生秘話
text by
望月文夫Fumio Mochizuki
photograph byKYODO
posted2021/01/21 11:01
ジュビロ磐田のレジェンドOB・中山雅史がコーチ就任へ
最終戦のイラク戦でまさかの同点弾を浴びた瞬間、先発出場で勝ち越し弾まで決めてベンチに退いていた中山はグラウンドに崩れ落ち、しばらく立ち上がることができない姿がテレビ中継で大写しされたのだ。
悲劇に終わった日本代表だが、その中心選手だったゴン中山人気は頂点に達し、帰国すると地元磐田市にある練習場周辺の道路が大渋滞を起こすほどだった。Jリーグの初期メンバーとなった10クラブ、いわゆる「オリジナル10」を逃した磐田が1994年に1年遅れでリーグに参戦すると、人気はさらに勢いを増した。
なぜなら、中山も磐田もそれ相応の実力を兼ね備えていたからだ。
ピッチに立てば負けん気十分なガムシャラプレーを見せ、間に合わないと思うようなボールでも、ラインぎりぎりまで必死の形相で追いかける。時にはしつこいプレーで相手GKからボールを奪い、そのまま決勝弾を決めた試合もあった。
後に日本代表の常連となる後輩の藤田俊哉や名波浩、福西崇史、服部年宏らのお膳立てもあり、ストライカー中山はゴールを量産していく。試合後のお立ち台では恒例ともなった「俺がジュビロの中山だ!」の雄叫びもあり、お茶目な側面がまた人気に拍車をかけた。
そして、1997年には初のリーグ年間王者になり、いよいよ磐田の黄金期が幕を開ける。
圧巻だったのは、自身の活躍もあって出場を勝ち取ったフランスW杯開催の1998年。W杯開催前の4月には、当時のギネス記録だった4試合連続ハットトリックを達成。W杯初出場の日本代表は3戦全敗だったが、ジャマイカ戦では日本人の大会初ゴールも記録した。そしてこの年のリーグ戦は27試合に出場し36ゴールを決め、現在も残るシーズン最多記録で得点王とMVPに輝いた。
意外すぎる、プレースタイルの“起源”
「結果を出した自分に驚いたし、中には成長を感じるようなプレーもあったけど、結果はたまたまかもしれない。無意識のうちに身に付いた技術があったかもしれないが、成長を客観的に理解できるまでには至らなかった」
以前控えめに振り返っていた中山だが、当時司令塔としてチャンスを演出していた名波は、ガムシャラな先輩のプレーを認めていた。ある試合で絶好の機会を演出したものの、中山がゴールを逃した試合後もこう賛辞を贈った。