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【引退】“ら”から這い上がった曽ケ端準の23年間 ジーコが語った「すべての選手はソガを目指すべき」
posted2020/12/24 20:00
text by
池田博一Hirokazu Ikeda
photograph by
Kiichi Matsumoto
始まりは“何クソ”という思いからだった。
「僕以外の同期5人は、全国高校サッカー選手権大会で活躍した選手ばかりだったんです。いつも記事には5人の名前が順に並んで、『中田浩二、本山雅志、小笠原満男、山口武士、中村祥朗ら』。僕は、“ら”の1文字で扱われていた。そこはメディアに対して“何クソ”という気持ちがありましたね」
1998年、鹿島アントラーズへ加入。日本サッカーを牽引してきた『ゴールデン・エイジ』と呼ばれた79年組は、どの選手も大いに注目された。そんな6人のうち、唯一高校サッカーではなく、アントラーズユースから昇格したのが曽ケ端準だった。
兄のボールを受けた少年時代
1979年8月2日、茨城県鹿嶋市で生まれた。小学2年から2歳上の兄の影響でサッカーを始めた。GKになったのも、すぐだった。
「小学3年になったとき、チームにGKがいなかったので自分からやりたいと言ってGKになりました。それからずっとGKです」
兄とサッカーをするときは、いつも兄がボールを蹴って曽ケ端がボールを受けた。それもあって「やってみようかな」という思いが生まれたという。
今でこそ「あまり派手ではなく、着けたときの感覚がいいもの。指がスムーズに動く固さのないものがいい」というGKグローブへのこだわりがあるものの、当時は素手やゴムのついた手袋をGKグローブとしてボールを受け続けた。
住友金属蹴球団時代からのファン
サッカー少年だった小学生時代、ジーコが出場する試合を観戦した。そのときのことが、今でも脳裏に刻まれている。
「当時、自分の試合があったので、なかなか日本サッカーリーグの試合を見に行くことはできなかったのですが、その試合だけは見に行きました」
1991年、鹿島アントラーズの前身である住友金属蹴球団にジーコが加入。初めて出場した試合は住金グラウンド(現日本製鉄グラウンド)で行われた。当時、スタンドで観戦する小学生の曽ケ端をインタビューした映像が、今も残っている。その後、鹿島アントラーズのJリーグ入りが決まり、鹿嶋市(当時鹿島町)全体で大きな話題となった。
「Jリーグが始まってからは、ほとんどの試合を見に行っていました。当時、中学生でしたが、地元のサッカー部に所属していて、選抜に選ばれる選手も多く割と強かったんですよ」
小学生のときから、母体となった住友金属蹴球団を見て育った。そして、その後に誕生した鹿島アントラーズのサポーターでもあったのだ。