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戦力外通告のウラ側「兄に電話して泣きました」 ドラ1、ハンカチ世代…3人のプロ野球選手が語る“クビの瞬間”
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byKYODO
posted2020/12/07 11:00
2008年、ドラ1で阪神入りした蕭一傑。12年オフに戦力外通告を受ける
「次の1年で調子を戻してとは思っていましたけど、あのシーズンはプロに入ってから一番調子が悪かったんで、何も言い返せなかったですね。ただ、電話がかかってきた時は何が起きたのか分からなかったんです。トレードかなと思っていたんですけど。阪神で偉大な選手が付けた『19』を自分も付けさせてもらったことは本当に光栄でした。でも、その背番号で活躍できなかったことは、悔いとして残っています」
同年のトライアウトを受けたあと、ソフトバンクでは育成選手として1年在籍しただけで台湾に帰国した。昨季は台湾のスーパースター・王柏融の通訳として日本球界に復帰。他のリーグ、異なる球団を知ったことで多くの学びを得たと語っていた。今は日本ハムを退団、台湾のプロチームでコーチ業をしている。
“上原2世”の戦力外通告「兄貴に電話して泣きました」
そして、日本ハムでリリーバーとして、時には先発として活躍する村田透は巨人を退団してから大きく人生を変えた人物だ(※12月2日、村田は日本ハムから自由契約選手として公示された)。
2007年の大学・社会人ドラフトで、巨人から1位指名を受けた村田は入団直後から、「上原2世」と期待された。上原の大学の後輩にあたり、全国制覇の経験を持つ村田に偉大な先輩を重ね合わせたのだ。
しかし、周囲の期待とは裏腹に巨人での村田は持ち味を発揮することができなかった。重度な怪我はなかったものの、戦列を離れることもあり、フォームが安定しなかった。プロ入りからたった3年で戦力外通告を受けた。
村田は当時、こう振り返っている。
「8月からはほとんど試合で投げる機会さえもらっていなかったので、予感はありました。その年、知人の結婚式にビデオレターを送っていたんですよね。ジャイアンツのユニフォームを着て、その結婚式の日が戦力外を言われた日で……。すごく悔しかったですね。日頃はあんまり泣かないのですが、あの時は兄貴に電話して泣きました」
アメリカへ…6年のマイナー生活
しかし、村田はそこで腐らなかった。戦力外通告を受けた選手の多くは、自暴自棄になり、数日間、練習をしなかったりするものだが、村田は「ここでやらなかったら野球人生が終わる気がする」と奮起して翌日から再スタートを切った。