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憎きマラドーナを、本当は大好きだった… “不仲のち親友”ペレ&宿敵ブラジルが嘆く天才の早すぎる死 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2020/11/26 17:35

憎きマラドーナを、本当は大好きだった… “不仲のち親友”ペレ&宿敵ブラジルが嘆く天才の早すぎる死<Number Web> photograph by Getty Images

1990年W杯イタリア大会での1枚。ペレとマラドーナ。サッカー界のレジェンドは心の奥底で、互いの実力を認めていたのだ

消えていた天才の超絶ラストパス

 ラウンド16で南米の2超大国が激突。マラドーナは、故障上がりで本調子ではなかった。ブラジルが圧倒的に優勢だったが、カレッカ、ミューレルらのシュートがバーやポストに嫌われる。

 後半35分、それまでほとんど何もできなかったマラドーナが、突然、ドリブルを始める。DF4人に囲まれながら絶妙のパスを放ち、クラウディオ・カニーヒアがブラジルのGKタファレルをかわしてゴールを陥れた。これが決勝点となり、セレソンは敗退した。

 以来、マラドーナはブラジル人にとって憎悪の的となった。

 1994年大会で、グループステージのナイジェリア戦後のドーピング検査で陽性となり、15カ月間の出場停止処分を受ける。アルゼンチンはラウンド16で敗退。一方、セレソンは24年ぶり4度目の優勝を遂げ、ブラジルのメディアと国民は二重の喜びに酔いしれた。

「ペレかマラドーナか」論議が2人に壁を

 マラドーナが、ブラジルやブラジル人を嫌ったことはない。「子供時代に自分が憧れたのは、同じ左利きのリベリーノ」と明言。リベリーノは、華麗なドリブルと左足からの強烈なシュートの持ち主で、ブラジル代表として1970年、1974年、1978年のW杯3大会に出場した名MFである。
 
 1984年から1991年まで在籍したナポリでは、カレッカ、アレマンらブラジル選手と共に黄金時代を築いた。彼らとは、プライベートでも親交があった。

 ペレに対しても、当初は尊敬の念を抱いていたようだ。しかし「世界のフットボール史上、最も偉大な選手はペレかマラドーナか」という論議が2人の間に壁を作った。

「マラドーナは、左足しか使えない不完全な選手」、「唯一の重要なゴールは、手を使ってあげたもの」、「薬物を常用するなど言動に問題が多く、子供たちの模範とはなりえない」とペレが批判すると、マラドーナも「ペレは金儲けばかり考えている」、「自分の良心をFIFAに売り渡した情けない男」とやり返した。

 2005年、2人はようやく仲直りする。

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ディエゴ・マラドーナ
ペレ

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