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「メッシよりケビン」って? ラトビアで指導者を目指す中野遼太郎の波乱の1年
posted2020/11/20 17:00
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph by
Ryotaro Nakano
久々に自分自身のことを書きたいと思います。誰やねん、という人はこちら(https://number.bunshun.jp/articles/-/842892)を参照してください。
現役引退後の進路を考えること自体に半年も費やした僕は、ああだこうだと考えた末に指導者を目指すことを決め、それならばUEFAライセンス取得に挑戦しながら実践を積むことが「自分にとっては」有効だと結論を出し、選手時代に所属したラトビアのFKイェルガヴァというクラブからのオファーを受ける形で、1月から指導者としての生活を始めました。
「とりあえずコーチとして契約する」という以外は、どの年代の誰を指導するのか、というのもわからないままの渡航です。選手時代はスパイクだけ持って海を渡ることがありましたが、今回はとりあえず笛とストップウォッチだけ持って出陣しました。行けばわかる、というのが意図せずに人生の裏テーマになりつつあります(おかげで「行ったら散々な目に遭いました」も裏テーマになりつつあります)。
最初は「とりあえずいる」立ち位置
さて。到着した僕が配属(というのでしょうか?)されたのはトップチームでした。
すごいと思ってくれた人がいたとしたらそのまま騙しておきたいのですが、その真偽は逆です。育成年代のコーチ(U-4からU-18まで)はアシスタントを固定せずに1人でグループを受け持っているので、「そんな責任の大きな場所は預けられない」というのがトップチーム配属の主な理由です。
遠征バスの手配や練習試合の交渉、選手の親とのミーティング、盗難処理までが育成年代のコーチの仕事であり、それを異国の地・ラトビアで行うのは僕にとってハードルが高いのです。笛とストップウォッチしか持ってないやつには任せられません。
トップチームになると、欧州では、ほとんどの監督が自前の「コーチングスタッフ」を連れていて、すでに一定以上の信頼関係のある「グループ(の長)」として活動しています。
僕がこのクラブに指導者として戻ってきた当初の監督はベラルーシ人でしたが、既に連れ添っている3人のアシスタントコーチと仕事を始めていました。そこに、僕が「こんにちは」と入っていくわけです。すこぶる警戒されますよね。「なぜ東洋人がアシスタントなんだ?」という空気がヒシヒシと伝わってきます(差別的な態度ではありません)。
正直、何も期待されていない状況ですし、初めは物理的にも精神的にも端っこで様子を伺いながら「とりあえずいる」という立ち位置でした。ただ、僕はそもそも自分の何が評価されて呼び戻されたのかは自覚しているつもりでしたし、そこで本当に「とりあえずいる」だけで終わってしまわないように、仮説を立てながら試行錯誤をしました。