草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
【引退】吉見一起が打ち砕かれ、目覚めた日 “精密機械”が極めた「もっと低く」のエース道
posted2020/11/05 17:00
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Kyodo News
中日の吉見一起が今シーズン限りでの引退を表明した。
金光大阪高校からトヨタ自動車を経て、大学・社会人ドラフトの希望枠で2006年に中日に入団した。右肘の手術からのリハビリがあることを承知の上でのラブコールだった。FA権を行使してMLBに移籍した川上憲伸から引き継ぐように、エースの座に君臨。09年に最多勝を獲得し、11年には最多勝、最高勝率、最優秀防御率など主要タイトルを独占し、チームを連覇に導いた。このシーズンは18勝でわずか3敗。防御率も1.65と圧倒的な数字を残したが、リーグMVPは同い年で絶対的なセットアッパーだった浅尾拓也に譲っている。
ところが、翌12年の13勝を最後に勝利数が二桁に乗ることはなく、度重なる手術の影響もあり、球威は衰えていった。
「現役を続けるという選択肢もあったけど、チームの中で自分が立っている位置を見つめ直したとき、ちょっとしんどいのかなと。次のステップのためにユニホームを脱ぐ。そう決めました」
打たれても、速いボールを投げたかった
しがみつくことはできたようだが、それを潔しとしなかったのがエースの誇りなのか。通算90勝56敗と、まさしく負けない男、貯金をもたらすエースだったが、吉見を吉見たらしめたのはなんと言っても抜群の制球力だろう。安定したフォームから、正確無比の軌道で投げ分ける。ストレート、シュート、スライダー、フォーク。どの球種も一級品であり、球速以上に打者に打ちづらいと感じさせる球質が武器だった。広島、阪神で活躍した新井貴浩は「あんなに(体感で)速いと思った投手はいなかった」と話していたほどだ。
そんな吉見にもスピードガンと戦っていた時代があった。
「若い頃にもコントロールがいいなんて言われてはいましたけど、速いボールを投げたかった、打たれても球速のMAXを更新できればOK。そう考えていたんです」
投げては後ろを振り返り、スコアボードのデジタル表示に一喜一憂する。転機は2人の強打者が授けてくれた。1人は当時巨人にいた小笠原道大、もう1人はヤクルトの青木宣親だった。