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“借り物”背番号106の衝撃デビュー なぜ巨人ファンは“不完全な”澤村拓一を9年半愛し続けたか
posted2020/09/09 17:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Kyodo News
「澤村の筋肉を語る、それはラーメン屋の食器を語るようなものだ」
何年か前、そんなタイトルの原稿を書いたことがある。16年には37セーブで最多セーブのタイトルを獲得したクローザー。なのに、いつ何時も150キロ越えの直球や成績よりも、四球や大胸筋が話題になる男。超繁盛しているのに、スープのクオリティよりどんぶりのデザインが悪いとディスられるラーメン屋じゃないんだから。考えてみてほしい。もしも、澤村が常に3人で抑える完璧なクローザーになってしまったら、俺らはいったい何を楽しめばいいのだろう。試合中、球場の声援は減り、Twitterのタイムラインは沈黙するはずだ。
――そんな内容のコラムである。当時『プロ野球死亡遊戯』というブログを毎日書いていたが、澤村の記事は村田修一と並んでとにかくPV数やコメント数が多かった。巨人ファンも偉大な高橋由伸や阿部慎之助には突っ込みにくい。けど、チームに加入したばかりの村田さんや澤村なら遠慮なく意見を言い合える。こんなもんじゃない、もっとできるはず。若手が待ってもらえないはずの球団で、誰よりも首脳陣を待たせる男。大学時代はひたすらタンパク質摂取のため肉を食らい、筋トレもやると決めたからにはとことんやる。叫んだ顔がシルヴェスター・スタローンにクリソツなんつって、愛と幻想の筋肉談義。なんだかんだみんな澤村拓一が好きだった。
9年前、初めて背番号15を見た日
初めて背番号15を球場で見た日は今でもよく覚えている。2011年3月2日、この日のために買った新品のオリンパスの双眼鏡を片手に、東京ドームへ走った。巨人のドラ1右腕が西武戦で本拠地初登板。相手先発投手は10年ドラフト会議で6球団が競合した大石達也である。話題のルーキー同士のマッチアップにオープン戦序盤にもかかわらず、3万4722人の大観衆が詰めかけた。まだ菅野智之の入団前、次代のエース候補として澤村と宮国椋丞が巨人ファンの希望のすべてだった時代の話だ。
ちなみに当時の世の中では、AKB48人気がピークで史上初の年間シングル売上げトップ5を独占。東京ドームで『AKB48 in TOKYO DOME ー1830mの夢ー』が開催されたのはこの翌年のことで、グループを卒業する前田敦子は「AKB48は、私の青春のすべてでした」と挨拶をしたが、澤村にとっても20代を捧げた「巨人軍は青春のすべて」だったのではないだろうか。
阿部に頭をはたかれた“中大ポカリ事件”
1年目から200イニングを投げ11勝で新人王を獲得。巨人では堀内恒夫以来となる新人から2年連続二桁勝利を記録した2年目の2012年は、中日とのクライマックスシリーズでチームが3連敗と絶体絶命の状況で先発すると、6回無失点で勝利投手となり、東京ドームのお立ち台から「明日も勝つ!」なんて絶叫した。