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“借り物”背番号106の衝撃デビュー なぜ巨人ファンは“不完全な”澤村拓一を9年半愛し続けたか 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph byKyodo News

posted2020/09/09 17:00

“借り物”背番号106の衝撃デビュー なぜ巨人ファンは“不完全な”澤村拓一を9年半愛し続けたか<Number Web> photograph by Kyodo News

9月8日、ロッテ移籍後初登板の日本ハム戦、3者三振に仕留めた澤村拓一。

 さらに同年の日本ハムとの日本シリーズでは第2戦に先発、緊張のあまりサインを見落とし、中央大学の先輩でもある捕手・阿部慎之助からマウンドで頭をはたかれ喝を入れられる。この“中大ポカリ事件”は平成珍プレー史に刻まれたわけだが、当時の澤村は24歳、阿部は33歳でMVPも獲得した全盛期バリバリのキャプテンである。

 そんな最強キャッチャーに超満員の東京ドームで引っぱたかれる若手投手。例えばあれが宮国や今村信貴のような当時の線の細い若手ならば、ただ屈強な先輩からしばかれているように見えてしまう。痛々しくてまったく笑えないだろう。けど、あの直後の東京ドームのスタンドからは笑いが起きた。オリンパスの双眼鏡でマウンドのやり取りを眺めていた俺も思わず笑った。昭和の青春ドラマのワンシーンのように、怖い先輩から叱られるヤンチャな後輩(もちろん令和ではコンプライアンス的にアウトだが……)。「相手を制圧したい」なんてプロレスラーのようなコメントを残し、阿部の喝を受けてもマウンドに仁王立ちする澤村の底知れぬ筋肉とキャラクターは貴重だ。そう、澤村拓一には“受けの美学”があったのだ。

3軍合流、大学生相手に先発登板

 称賛も批判も受け続け、近年の巨人で首脳陣やファンからこれほど色々言われた投手は他にいなかった。15年、16年は2年連続30セーブ以上を挙げるも、17年には右肩痛に針治療トラブルもあり1軍登板なし。三十路に足を踏み入れた18年は中継ぎとしてチーム最多の49試合に投げたが、19年春季キャンプで4季ぶりに復帰した原辰徳監督から先発転向を打診される。

「1点を守るのは窮屈そうに見える。お前さんの良さを俺はよく知っている。自分を小さく、窮屈にしているように見える。先発として頑張ってくれ。1点、2点、3点くらいいいじゃないか。そういう野球をやってみろ。智之(菅野)に匹敵する投手にお前はなれる」(19年2月26日付スポーツ報知)

 タツノリ節がうなる褒め殺しオファーだったが(抑え転向させたのも第二次政権時代の原監督である)、4月のDeNA戦で1651日ぶりに1軍先発登板すると、3回0/3を3安打4失点3四球で敗戦投手に。あっさり先発としては見切られ、リリーフとして再スタート。43試合を投げ、チームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、今季は13試合で1勝1敗、防御率6.08。不安定な投球が続き、失点直後にベンチで原監督から公開説教を食らったり、守護神デラロサ離脱時には代役クローザーを期待されるが不発に終わり、7月25日のヤクルト戦ではサンチェスの代役で緊急先発するも4回途中2失点で降板してしまう。翌26日に登録を抹消されると、8月11日には3軍合流。8月15日のプロ・アマ交流戦で上武大相手に先発登板したのは、日焼けした澤村だった。

不思議と納得できた「電撃トレード」

 未完の剛腕も、気が付けば32歳の崖っぷちだ。プロ野球選手でも会社員でも元アイドルでも、32にもなって何者でもない、自分のポジションがないっていうのは恐怖だ。若さとノリでなんとかなる10代、勢いとハッタリでしのいだ20代、でも30代は一種のリアルさを求められる。周囲を納得させるだけの実績とか具体的な人生プランとかそんなものだ。もうガキじゃない。だから焦る。ジャイアンツ球場で大学生相手に155キロの直球を投げ込む背番号15は、ヒリヒリするほど切実だった。

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澤村拓一
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