熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
水島武蔵にカズ&ヤス、前園、中澤。
本田圭佑へ連なるブラジル挑戦史。
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byAFP/AFLO
posted2020/06/15 18:00
ボタフォゴで予想以上の大歓迎を受けた本田圭佑。その要因の1つに、三浦知良ら大先輩の歩みがあったことは間違いない。
中澤は留学をステップに名CBへ。
横浜F・マリノスと日本代表で長く活躍した中澤佑二も、ブラジル留学を経験している。
1997年に高校を卒業した頃は全く無名で、Jリーグははるか彼方にあった。それでもプロ選手になる夢を諦めず、ブラジル中部の中堅クラブ、アメリカ・ミネイロのU-20に加入する。
劣悪な練習環境でハングリーなブラジル人選手との厳しい競争でもまれながら、力をつけていった。次第に練習試合などでプレーさせてもらえるようになったが、就労ビザの取得が障害となって1年で帰国する。
そこからヴェルディ川崎の練習生を経て、1999年、東京ヴェルディとプロ契約を結ぶ。松田直樹(日本代表のCBとして2002年W杯に出場。2011年、急性心筋梗塞で死去)と一緒にプレーするため2002年、横浜F・マリノスへ移籍し、日本を代表するCBにまで成長した。
中澤は「ブラジルで過酷な競争を経験し、仲間でもライバルなのだという意識が芽生えた。そのことが、その後の自分にとって重要な意味を持った」と後に語る。
ブラジルでの1年間の修行がなければ、ひょっとしたら名CB中澤佑二は存在せず、2010年W杯における日本のベスト16進出もなかったかもしれない。
前園は移籍後初の公式戦でゴール。
中澤とは反対に、日本で実績を残してからブラジルへ渡った選手もいる。その代表格が前園真聖だ。
1992年から'96年まで横浜フリューゲルスに在籍し、アトランタ五輪アジア予選で大活躍して五輪本大会にも出場。日本代表にも選ばれた。1997年からヴェルディ川崎でプレーした後、1998年10月にサントスへ3カ月間の期限付き移籍。25歳になろうとする頃だった。
10月18日、ブラジルリーグのポルトゲーザ戦にベンチ入り。0-0の展開に業を煮やした地元サポーターが、後半、「マイゼーナ」のコールを始めた。
「マイゼーナ」というのは、ブラジルの雑穀の粉の商品名だ。ブラジル人には「マエゾノ」と発音するのが極めて難しいので、サポーターが勝手にこう呼んでいた。
サントスでは1990年にカズが活躍しており、日本人選手への期待が感じられた。
コールを聞いたエメルソン・レオン監督(1992年から'94年まで清水エスパルス、1996年から'97年までヴェルディ川崎監督。2005年にヴィッセル神戸も指導)が後半20分、前園をピッチへ送り出す。
その直後、右サイドでパスを受けると、味方の選手に預けて前のスペースへ。リターンを受けて右足で強烈なシュートを放つと、これがゴールネットを激しく揺すった。
初出場で、しかもファーストタッチでの得点に、スタンドは大騒ぎ。再び「マイゼーナ・コール」が起きた。
翌日、サンパウロのテレビと新聞各紙は前園の初出場初得点を大きく報じた。