ミックスゾーンの行間BACK NUMBER
私のJ最強クラブ。ピクシーも言う。
「11年名古屋こそ優勝すべきだった」
text by
西川結城Yuki Nishikawa
photograph byJ.LEAGUE
posted2020/05/18 19:00
ポストプレイヤーとして機能したケネディ、中盤でチームを支えた中村直志(手前)ら、連動性あるサッカーで多くのファンを魅了した。
ダニエルソンの横に中村直志。
話を2011年に戻すと、15試合負けなしの時期を含め、前年から続く[4-3-3]のシステムがうまく機能していたかといえば、実は違った。ダニルソンのプレー範囲の広さや、闘莉王や増川の強さ。阿部の高精度のサイドチェンジに、玉田のテクニック、ケネディの高さ。そして金崎の馬力や永井のスピードと、個人の一芸で間延びした布陣の弱点を補っていたところは否めなかった。
広大なスペースを敵に与え、味方同士の距離も遠い。組織的観点からして、機能不全と隣り合わせの状態だった。
そこでピクシーが、変化を加えた。あるトレーニングで、アンカーのポジションに入っていたダニルソンの横に中村を入れ、ボランチを2枚にした。左右のサイドハーフには左に右利きの小川、右に左利きの藤本を配置。そして前線は玉田が下がり気味で自由に動き、頂点にケネディ。システムを2008年時の[4-4-2]に近い[4-2-3-1]の形にした。
当時の選手たちの反響を、今も克明に覚えている。
「この形はコンパクトに戦えるし、連動性が高まる。何より、守備も攻撃も人が近いからやりやすい」(玉田)
一際、輝きを取り戻した選手がいる。3年前に大活躍した小川。2009年からはピクシーがかつて背負った10番をつける看板選手になったが、優勝した2010年は全試合に出場するも先発は19試合。メインキャストからは外れていた。
独力で局面打開が求められた[4-3-3]で、小川は窮屈な思いをした。常々本人も「僕は速さもドリブルも強さも、突出したものはない」と認める。ではなぜ、2008年に得点、アシストともに2桁を記録したのか。それは一にも二にも、当時は連動したチーム戦術の中で最高に生きる選手だったからである。狭いエリアで素早く動き、また中間ポジションから瞬時に敵の背中を取るのがうまい。止める、蹴るという基本技術も安定している。迷路のような相手守備網を、パスを出して、動いて、また受けて、くぐり抜ける。
連続性のある戦術が存在する時に、小川は光を放った。
小川が輝けば、好循環が生まれる。
2011年シーズン中盤以降、ピクシーは試合途中に[4-3-3]から[4-2-3-1]に変えていくベンチワークが目立っていった。そして優勝争いの追い込みがかかる終盤戦には、ついに試合スタートから採用していった。
ダニルソンと中村が、強度と動きの量で中盤の守備を締める。トップ下で自由を得た玉田と、清水時代と同様にサイドから流動的に動ける位置に移った藤本のレフティコンビは、阿吽の呼吸で技術を呼応させていく。今も互いに「ベストコンビ」と称え合う、翼くん&岬くん的マッチングだった。
圧倒的高さが武器のケネディ。しかし彼のプレーを継続的に見ていた人ならわかるだろう。本人が明かす。
「僕は大きいけど、大好きなのは足元のプレー。できれば縦パスはグラウンダーでほしいよね(笑)」
味方の動きが流動的で距離も近くなったことで、柔らかいボールキープで攻撃の基準点を担った。空陸両用のポストマンが冴えに冴えた。
そこに小川が加わる。水を得た魚のごとく、背番号10がチームの中で有機的に働くようになった。玉田と藤本の連係に加わり、機動力でさらに敵を撹乱させる。左サイドバックの阿部との連係も戻った。ピクシー率いる名古屋において、彼の躍進は成功の代名詞でもあった。小川はチームのバロメーター。輝けば、組織が好循環していた証拠だった。
さらに交代で出てくるのは、永井と金崎。疲れた攻撃陣に替わり後半途中で、果敢なアタッカーがジョーカーとして登場する。なんとも強烈なダメ押しだった。