令和の野球探訪BACK NUMBER
無名右腕がMLBに受けた高評価とは?
ドラフト指名なしも、米球団は即決。
text by
高木遊Yu Takagi
photograph byYu Takagi
posted2020/02/27 15:00
憧れのMLBへ、思わぬ形でスタート地点に立った冨岡聖平。不遇の大学時代を経て、挑戦の道が開かれた。
「あれ、もう消してほしいんですよね。」
当時の冨岡を証言するのは、自らが開いたアカデミー施設『Be an Elite』を冨岡の自主トレ先として提供する東洋大の同期・松本憲明(元四国アイランドリーグplus・徳島投手)だ。
「うちの父親が(東洋大の)セレクションを観に行っていたのですが“桜井の冨岡ってやつがすごかった”と言っていたのを覚えています」と振り返った。
当然、東洋大の高橋昭雄監督(当時)の目にも留まり、1年秋から東都大学野球2部リーグのマウンドに立って2試合に登板。初勝利も挙げた。だが、翌春にこそ3試合に登板したものの、以降は登板機会がほとんどなく、次の出番は1部リーグに復帰した3年春、たった1試合。さらにこの試合が大学の公式戦で最後の登板となり、神宮球場で上がった唯一のマウンドになった。
現在もその試合の動画がインターネット上には残るが「あれ、もう消してほしいんですよね。あの時は終わってます」と苦笑いを浮かべる。
「投げ込む中で肩を痛めたこともありましたし、“テイクバックが後ろに入るから直せ”と言われ続けているうちにフォームを見失ってしまいました」
豪華投手陣の中で埋もれた東洋大時代。
ただ「指導のせいではないんです」と冨岡は強調する。
「自分は知識や引き出しがありませんでした。言われたことをただ感覚でやるのではなく、落ち着いてしっかり一段一段固めていけばよかったなと今は思います。だけど、当時はそんな余裕もなかったんです。周りのレベルが高くて、(ライバルたちに)勝たないとと思っていて、積み重ねることができませんでした」
2学年先輩には原樹理(ヤクルト)、同期には春秋連覇に導いた飯田晴海(日本製鉄鹿島)、後輩にはセンバツ優勝投手の村上頌樹(新4年)、甲斐野央(ソフトバンク)、さらには台頭する前の上茶谷大河(DeNA)、梅津晃大(中日)らも控えていた豪華投手陣だ。自身の投球を模索していた冨岡に登板機会が訪れることはなかった。