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ジョコビッチよ、俺と練習してくれ!
有明で叶った嘘のようなホントの話。
posted2019/10/20 20:00
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph by
Iori Yoshida
「どこに打っても、そこにノバクがいたんだ」
世界No.1テニスプレーヤー、ノバク・ジョコビッチに敗れたあるトップ選手の敗戦の弁である。錦織圭もその強さを「壁」と言い表したことがある。
持ち前の柔軟性と俊敏さでコートのすべてをカバーし、どんなボールを打ち込んでも返球してくる。それこそがジョコビッチである。
分かっていたつもりだが、その“壁っぷり”はコートの範疇にとどまるような単純なものではなかったらしい。今年の楽天ジャパン・オープン、初出場で易々と優勝したジョコビッチは、ある驚くような行動で世界一の返球力を我々に示していった。
大会の本選3日目、ひとりの青年が会場の有明テニスの森公園で半信半疑で待っていた。
パスはない。チケットもない。彼の頼みの綱は約1時間前にジョコビッチのフィジオから入った連絡だけだった。
「ノバクに聞いたらお前と練習するのは全然問題ないと言ってるぞ。あと1時間後ぐらいになるけど、準備して待ってろよ」
完全な部外者に警備員もストップ。
彼の名は吉田伊織。テニスファンでもその名前を知らないだろう。ツアーはおろか、下部のチャレンジャー、そしてさらに下にあるフューチャーズの本選にも出たことはない。半年前にYouTuberとしての活動を始めた全く無名の選手である。
本当にジョコビッチと練習できるのか?
ウォーミングアップしながら待ち構えていると、フィジオから「今から行くぞ」と再度連絡がきた。ほどなくして、練習コート行きのカートに乗って現れたのはまぎれもなくジョコビッチ、その人だった。
吉田がそのカートに乗り込もうとするとセキュリティーが割って入った。当然だ。事情を知らない警備の人間からすれば完全な部外者である。しかし、ジョコビッチ陣営が引っ張り込んでくれた。
「あなたはレジェンドだ!マジでリスペクトしてる」
「セルビアではチェバピ(バルカン半島の伝統的肉料理)を毎日100個食べてた」
「あなたみたいに強くなりたかったからだ」
コートに着くまでの間、無我夢中でしゃべり続けた。
気がつくとネットをはさんだ向こう側に、ラケットを持った世界No.1プレーヤーが立っていた。物怖じしないタイプであるはずの吉田だが、頭の中はすっかり真っ白。何年も胸に抱いていた夢が急転直下、まさかこんなところで、こんなタイミングで実現するなんて……。