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がんに襲われた大学生ラガーマン。
わずか1年で克服し、プロの道に。
text by
多羅正崇Masataka Tara
photograph byMasataka Tara
posted2019/05/13 10:30
トップリーグ昇格を果たした三菱重工相模原ダイナボアーズの一員として、新シーズンに挑む田中伸弥。
ジャージーの下に背番号「7」。
当時の近大主将で、大阪桐蔭高でも同期だった喜連航平(きれ・こうへい/現NTTコミュニケーションズ)は、田中が最初にがんを告白した仲間だ。
近大はリーグ戦を7位で終え、負ければ下位リーグに降格となる入替戦を控えていた。
「入替戦に向けたミーティングの前に電話をもらったのですが、衝撃でミーティングではまったく喋れませんでした。あの年はシンヤで(チームが)保てていたといっても過言ではありません。運動量があって、流れを変えるタックルをする。『シンヤさんみたいになりたい』という後輩も多かったです」(喜連)
近大は12月10日の入替戦で、龍谷大学を69-28で下す。ジャージーの下には田中の背番号「7」を書いたTシャツを着込み、病室の仲間の分まで戦った。
「治るか治らないかは50%」
入替戦の勝利から2日後、田中は12月12日に大阪国際がんセンターに転院した。抗がん剤治療を始めるためだった。がん細胞を死滅させたのち、手術で腫瘍を取り除くのだ。
「抗がん剤しか治療法がないと言われていて、この抗がん剤が身体に合わなかったら死ぬしかない、という感じでした。『治るか治らないかは50%』と言われた時は、だいぶショックでした」
自他ともに認める楽天家だが、恐怖に呑まれた。
「ラグビーしかしていなかったので、死ぬ前に遊びたいという気持ちになってしまって。『治療する前に今から遊びに行かせてほしい』と言ったことを憶えています。病棟のエレベーターの前まで行ったんですよ。でもこの状況で遊べるわけはないので、結局戻って、そこから治療を始めました」
ベッドに戻り、腕を差し出した。
それから投薬と休薬を合わせた約3週間を1クールとして、それを8周分――第8クールに及ぶ、約半年間の抗がん剤治療が始まった。
「毎朝6時半に血の検査があるんです。そのあと8時頃に先生が来て「大丈夫」と言われたら、『今日も1日生きられる』『寿命が1日延びた』という感じです。でもまた夜になると不安になってくるんですよ。もし抗がん剤が合わなかったら、すぐ数値に出るので」
翌日の朝の検査も、大丈夫。翌日も、大丈夫。1日、また1日と寿命は延びていった。
「1週間後くらいに検査をしたら、腫瘍マーカーが20万から5万くらいになったんです。めちゃくちゃ効いてるんです。先生も『このまま続けよう』となって」