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菊池雄星と大谷翔平の恩師が語る、
花巻東育成メソッドと6年間の物語。
text by
佐々木亨Toru Sasaki
photograph byHideki Sugiyama
posted2019/01/15 10:30
菊池雄星と大谷翔平を高校時代に育て上げた花巻東の佐々木監督。
試練は乗り越えられる者だけに。
思えば、高校時代の菊池は「試練は乗り越えられる者だけに訪れる」という言葉をよく使ったものだ。
2009年のセンバツでは、1回戦の鵡川戦で152kmを記録。大会ナンバーワン投手として、春夏を通じて岩手県勢で初めて甲子園の決勝にチームを導いた。しかし、トーナメントのてっぺんを争った清峰戦は、わずか1失点で敗れる。それでも菊池は気丈に語った。
「一番練習をしてきた真っすぐを打たれたので後悔はありません。準優勝は、自分たちに『日本一はまだ早いよ』と、野球の神様がくれた試練だと思います」
そして迎えた高校3年の夏。本気で日本一を目指したチームは、甲子園の準決勝で敗れた。岩手県大会から肩と肘に違和感があり、加えて「呼吸しても痛かった」という背筋痛(のちに肋骨の骨折と判明)が、夏の菊池の前に試練として立ちはだかった。
道半ばで夢は絶たれた。敗れた直後、菊池は一生分と思えるほどの涙を流した。
日本一という夢には辿り着かなかった。
ただ、試練に立ち向かい、逃げずに夢を追い続けた。その姿勢がかたちとなって表れたのが、最後の夏、3回戦の東北戦で記録した左腕として甲子園最速となる154kmだった。
菊池のノウハウを大谷に。
菊池がいた'07年からの3年間は、紛れもなく花巻東の礎となった時代である。菊池が生んだ源流を、さらに広げて大河としたのがもう1人の怪物、大谷翔平である。
大谷が花巻東に入学したのは、菊池が卒業した'10年春だった。高校のグラウンドで同じ時間を共有することはなかったが、2人が連なるように同じ紫色のユニフォームを着たことは大きな意味合いを持つ。
佐々木からしたら、菊池という稀代のピッチャーを指導したことでノウハウができ上がり、その熱量が体内にはっきりと残ったまま大谷と出会えたことは幸運だった。
「雄星たちの代の野球を、中学3年生の大谷が見たことは大きかったと思います。岩手が野球で熱狂し、こんなにもみんなが一つになるんだということを、15歳の大谷は見て感じたわけですよね。あの県内のフィーバーがなかったら、大谷は他県の高校に行っていたかもしれない。すべては巡り合わせだったと思います」