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パシュート金の菊池彩花が涙の引退。
黙々と1人で滑る姿を、恩師が告白。
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byAFLO SPORT
posted2018/04/12 07:30
平昌五輪からの帰国直後の記者会見における菊池彩花。今後は富士急に籍を置きつつ指導者としての道を歩む。
同期入社の選手が先に日本代表に。
それでも、「厳しい環境に身を置くことで強くなる」を信条とし、ときには悔し涙をながしながらも日々のトレーニングに必死にくらいついていたころ、富士急に同期入社した選手が先に日本代表の座を射止めて国際大会に出場した。
「自分もまずは日本代表選手になりたい」
闘志がわいた。代表選手として大会に出たチームメートには“代表ジャージ”をプレゼントすると言われたが断った。
「自分の力で着たい。そう言って、もらわなかったのは覚えていますね」
それから10年あまり。菊池は入社7年目にして'14年ソチ五輪に出場すると、ソチ五輪後は日本スケート連盟が発足させたナショナルチームに入って練習を重ねた。
成果は確実に現れ、'15年2月の世界距離別選手権女子チームパシュートで日本は初めて金メダルを獲得した。
メンバーは高木美帆、高木菜那、菊池の3人だった。'15年5月にオランダ人のヨハン・デビットコーチが就任すると、翌'16年3月にはW杯で女子チームパシュートの総合優勝に輝いた。
平昌五輪への強化が進む中、大怪我を……。
ところが、平昌五輪に向けて順調に強化が進んでいるタイミングで、予期せぬ大きなアクシデントに襲われた。'16年夏のナショナルチーム合宿。氷上トレーニング中の転倒・接触で、菊池は右ふくらはぎの腱などを断裂する大けがを負った。
入院、そして手術。退院してからの松葉杖生活。一時は茫然自失の時期もあったが、立ち上がるのは早かった。
「練習ができないどころか、日常生活でも不自由なことばかり。それまで当たり前だと思っていたことの幸せに気づいてからは、考えも変わりました」
リハビリ期間中にもエムウエーブでの大会に行き、仲間でありライバルでもある選手たちの滑りを見ては、何かを得ようとした。リンク外でも栄養学の本を読んで食事を改善。メンタルも見直した。