野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
交錯した野球人生がまた1つに……。
新井貴浩と赤松真人、広島での邂逅。
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph byHideki Sugiyama
posted2016/09/23 11:30
新井を知る誰しもが言うのは、その「人を思いやる気持ちの強さ」。阪神から広島への異例の復帰移籍も、新井だからこそ、である。
野球人生の最後を求めて、古巣広島に復帰。
「シーズン中から葛藤はあったと思う。大切な戦力だったし、ゴメスの絡みはあったけど、新井がチームにいる、いないでは、ベンチを含めて、すべての面でめちゃくちゃ痛かった。でも、新井の野球人生だからね。一番、試合に出られる機会を求めて野球人生の最後をどこで過ごすか。そこは新井の決断だから」
和田は同じグラウンドに立つ者として、野球に向き合う姿を見ていた。
「ウオーミングアップから手抜きしない。ダッシュで最後は流してしまうものだけど、新井は最後まで抜かない」
全体練習後、いつまでも打っている姿が脳裏に焼きつく。
「もう休めよ、というくらいに、突き詰めるんだよな」
それくらい、一途になる男の決心だった。
阪神を自由契約になり、広島が手を差し伸べ、まとまった移籍だったという。FAで球団を移った選手が、かつてのチームに戻るのは珍しい。新井自身も広島の入団会見で「想像していなかった。そこに帰っていいものか」と偽らざる心境を明かしている。阪神の理解、広島の愛情あってこそ実現した古巣復帰だろう。
人的補償で移籍した赤松も広島で花開いた。
25年ぶりの優勝を遂げ、赤ヘル軍団はビールかけで喜びを分かち合う。そのなかには、俊足で鳴らすプロ12年目の赤松真人もいた。
新井がいなければ、あるいは、広島でプレーすることはなかったかもしれない。
阪神に'04年のドラフト6位で入団。転機になったのは8年前だ。FA宣言した新井が阪神に加入したのに伴って、人的補償で広島に移籍した。当時を思い起こし、いつものように、あっけらかんとした声で言う。
「自分の意思でカープに行ったわけじゃないけど、カープからは来てほしいということですから。阪神にいたら、どうなっていたか分からない。カープで運良く試合に出させてもらい、大きな舞台でプレーするのは重要だと感じました。野球選手として(移籍は)当たり前のこと。自分次第だと思っていましたから」
赤松は広島で花開いた。
移籍1年目の'08年から一軍に定着。'09年は開幕スタメンを果たし、規定打席に達するなど活躍した。'10年には外野フェンスによじ登り、本塁打性の打球をつかむ「ザ・キャッチ」の離れ業も演じた。運命のように導かれた新天地で、持ち味を発揮。入団当初、こんな気持ちがあったのだという。
「トレードではなく、FAの人的補償。対等というレベルではないけど一般的に見れば『新井さんの代わりに赤松が来た』となる。話題にはなりますからね」