One story of the fieldBACK NUMBER
阪神・中村勝広GMとの最後の電話。
止まなかった批判に「男のロマンだな」。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKasuaki Nishiyama
posted2015/10/13 11:40
1990年代前半の中村勝広・阪神元監督。まだ66歳での、早過ぎる逝去であった。
暗黒時代のリベンジを果たすはずだった今年。
1990年に誕生した中村阪神は、南広報課長、高野広報(共に当時の肩書)が支えた。今のように球団組織が成熟する前の時代だ。
2人は何でもやったという。南は正月以外、完全オフなどなかった。高野はキャンプ練習中の声出し役から、練習後はスナックの“バーテンダー”にまで扮して監督を盛り立てた。
阪神フロントマンの実態は苛烈だ。だが、伝統球団を背負う使命感が背中を押すのだろう。3人はそうやって、苦しくも、充実した「暗黒」と呼ばれた時代を駆け抜けてきたという。
そして3年前、球団初のポストとしてGMを創設し、中村を呼んだのも南球団社長だった。高野本部長とともに、3人は再び“盟友”として、優勝という夢を追うことになった。
和田豊監督も、平田勝男ヘッドも、中西清起投手コーチも、1985年の日本一を経験してはいる。ただ身を置いたのは、暗黒時代の方が長い。つまり今年リーグ制覇を果たせば、それはフロントも現場も含め、あの時代を経験した男たちによる20年越しのリベンジだった。
朝でも夜中でも取材に応じる懐の深さ。
記者として中村GMに接した2年半、記憶に残るのは誠実さ、実直さ、そして圧倒的な包容力だ。いつ、どんな時でも取材に応じてくれた。朝7時でも、夜11時でも、自宅でも、阪急電鉄・逆瀬川駅でも……。仕事で批判されることも多かった。だが、それもすべて受け止めた。なぜなのか? 聞いたことがある。
「『尽くして力まず、施して求めず』だよ。批判されるのは、それだけの仕事をしているということ。男のロマンだな」
監督としては6年間で最下位3回、Bクラス5回。結果が出ず、ボロボロに批判された。自宅にカミソリの刃が送られてきた。GMとなってもそうだった。それでも耐えて、受け止めた。人気球団の苦い部分をどれだけその体に内包してきたか。なぜ、そこまで……。あらためて、その悲哀を実感したからこそ関係者は涙が止まらなかったのだろう。