野球善哉BACK NUMBER
U-18W杯で清宮・オコエが更に高く!
甲子園開催の決勝に“帰って”こい。
posted2015/08/28 10:50
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph by
Kyodo News
8月25日にプロ初本塁打を満塁で飾ったソフトバンク・上林誠知のヒーローインタビューのコメントを聞いている時、プロ入り直前の彼の言葉が蘇ってきた。その時の上林は、多くのドラフト指名候補生たちとは少々異なるコメントを述べていたのだ。
「思い出したくないくらい悔しいのがJAPAN(U-18日本代表)でのこと。自分はJAPANでは控えだった。試合に出ていた人たちの方が自分より上という評価のままでは悔しいので、これからはそいつらの頂点に立てるように、見返していきたいです」
3年前の高校野球界において、上林誠知は十分に実力を認められているトップクラスのうちの1人だった。高校2年の夏に初めて甲子園に出場。そこで注目を浴びると、同年秋の明治神宮大会で優勝。仙台育英高の主将、中堅手、4番打者として攻守にわたってチームをけん引した上林は、当時大阪桐蔭で活躍していた森友哉になぞらえて“東の森友哉”と称されるほどだった。
しかし、高校3年の夏、上林は大きく調子を落とす。
上林にプロでの雪辱を誓わせた高校JAPAN。
夏の甲子園での1回戦・浦和学院戦で3三振するなど極度の不振に陥った。力みからバッティングの始動段階でバットのヘッドが中に入る悪癖が出るようになり、スイングしてもヘッドが出てこなかった。大会後、ワールドカップのメンバーにこそ選出されたものの、上林がチームの中心になることはなかった。彼の言葉にあるように、JAPANでの位置づけとしては控え。それも、内野手だった選手が打撃を買われて外野にコンバートしたことで、上林がはじき出されるという経緯であった。
上林にとってはこの上ない屈辱だったわけだが、その経験はプロ入りした後まで十分な肥やしになったというわけである。
「JAPANに入っていなかったら、こんな気持ちにはならなかったし、JAPANで活躍していたら、僕は鼻が高くなって練習をせずに、 プロからの指名を待っていたと思う。僕の目標がメジャーで活躍することに変わったのも、この経験があったからだし、つらいことではありましたが、いい経験だったと今は思っています」