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元コロンビア代表の日系人がいた!
道工薫、90歳のサムライ蹴球人生。
text by
北澤豊雄Toyoo Kitazawa
photograph byToyoo Kitazawa
posted2014/06/09 10:30
コロンビアのバランキージャ市で現在も仕事を続けている道工氏。その眼差しは「サムライ」の文化を思わせる精悍さを湛えていた。
コロンビアサッカー界のエリートの地にて。
道工薫は1924年5月16日にコロンビア北部のウシアクリという小さな町で生まれた。父の利雄は広島県の竹原市出身。若かりし日の彼が地球の裏側の未知の国に目を向けたのは、竹原市から先行して1915年(大正4年)にコロンビアに単身移住していた同郷の先輩から呼ばれたためであった。
1918年にコロンビアに入国した父の利雄は、紆余曲折を経て雑貨の行商をしながら一応の生活基盤を築くようになる。1921年にコロンビア人の女性と結婚してまもなく薫が生まれた。家族はやがてバランキージャ市に移り、幼少の道工は路上のフットボールに目覚めた。
道工は苦笑しながら当時を回想する。
「フットボールといってもボールは蹴っていません。スペイン語で、ボラ・デ・トラポと言ってね。ぼろの布切れをたくさん重ねて丸めたものをボール代わりにしただけです。もっとも、今だって貧しい子供たちはそんなに変わらないですよ。バランキージャは海沿いの暑い街です。いたるところにココナッツの木があり、実が落ちています。子供たちはパンツ一枚でそれを蹴り飛ばしている。この地域から有名なサッカー選手が数多く輩出されて代表メンバーの中心になっているのは、そんなところにも理由があるのかもしれませんね」
バランキージャ市などカリブ海に面する地域一帯のことをコロンビアでは総称して“コスタ”と呼んでいる。そのコスタの代名詞こそがサッカーなのである。コロンビア・サッカー界の象徴カルロス・バルデラマ(元コロンビア代表)とラダメル・ファルカオ(モナコ)を筆頭に錚々たる顔ぶれを輩出したコスタの地で育まれた道工は、1948年に産声を上げたプロサッカーリーグでプロ選手となった。のちに国内屈指の名門となっていく「サンタフェ」に入団したのだが、このとき道工は、専業のプロサッカー選手ではなかった。
「海軍に入れば父の祖国へ行けるかもしれない」
国内屈指の名門「サンタフェ」に1948年に入団する以前の19歳から道工はバランキージャ市のアマチュアリーグでプレーしていた。地元では目立つ選手だった。
雑貨商の父の手伝いをしながらであったが、家は貧しかった。そこで道工はコロンビア海軍に入隊した。生活のためでもあったが、同時に「海軍に入れば父の祖国へ行けるかもしれない」という日本への淡い思いもあった。