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元コロンビア代表の日系人がいた!
道工薫、90歳のサムライ蹴球人生。 

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北澤豊雄

北澤豊雄Toyoo Kitazawa

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photograph byToyoo Kitazawa

posted2014/06/09 10:30

元コロンビア代表の日系人がいた!道工薫、90歳のサムライ蹴球人生。<Number Web> photograph by Toyoo Kitazawa

コロンビアのバランキージャ市で現在も仕事を続けている道工氏。その眼差しは「サムライ」の文化を思わせる精悍さを湛えていた。

ただ無我夢中でボールを蹴った、代表での試合。

「今の若い人たちは、代表と聞くと、きっと華やかなイメージを持つのでしょうね。でも、私の頃はそうではありませんでした。寄せ集めの集団に近いかもしれません。急に招集されて、無我夢中でボールを蹴ったという感じです。ただし、代表に選ばれたことはやっぱり嬉しかったです」

 だが、道工の代表招集は1試合のみで終わることになる。翌年には代表選出以上の出来事に身を投じて行くことになるからだ。

代表招集された翌年、朝鮮戦争行きを志願。

 コロンビア代表に招集されなくなったのは、監督の好みや実力の問題だけではなかった。この時期は道工のように兼業選手が少なくなかった。専業でメシが食えたのはコロンビア人ではなく、助っ人のアルゼンチン人やパラグアイ人やウルグアイ人たちだった。道工がキャプテンを務めた1949年当時の「サンタフェ」のメンバーの半分近くが外国人だった。だから代表に招集されても兼業の仕事が多忙だと合流できない者がいた。

 道工も例外ではなかった。

 代表に招集された翌年、道工はすでに勃発していた朝鮮戦争行きを志願した。サッカーを辞めてまで自らの意志で朝鮮に行こうとしたのは、その途上で日本へ行けるかもしれないと考えたからだ。

「1952年のことでした。私はクラブを辞めてコロンビア海軍の一員として横須賀や佐世保の米軍基地に駐留しました。そのとき、休暇をとって広島の竹原へ通訳を連れて行きました。父の家族に会えてとても嬉しかったのを覚えていますが、通訳を介しているせいか、どこかぎこちなさもありましたね。でも父の故郷が見られて良かったです」

 帰国後も道工はコロンビア海軍の一員であったが、国内のクラブは彼を放っておかなかった。ステファノやのちにカルロス・バルデラマが所属した国内屈指の名門「ミジョナリオス」の選手となり、1959年の35歳までプレーを続けた。

 在コロンビア50年目、邦字紙「アンデス週報」編集長で公認通訳士の村松勉は言う。

「道工氏には一度だけお目にかかったことがあります。背が高くて紳士なお方でした。私が東京からコロンビアに自発的に移住してきた1960年代の前半当時、コロンビアのサッカー界で道工氏のことは知られていました。とはいえ当時のコロンビアはW杯に出場していませんでしたからねぇ。初出場は1962年のチリW杯でした。歴史に『もしも』は禁句ですが、もう少し生まれるのが遅ければ、彼は今頃コロンビアサッカー界の要職についていたかもしれません」

【次ページ】 コロンビア代表チームのキープレイヤーは2人。

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