オリンピックへの道BACK NUMBER
高梨沙羅の同学年ライバル、ソチへ。
山田優梨菜、ブランクを財産に飛ぶ。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byShino Seki
posted2014/01/29 10:50
母校、白馬高校でリラックスした表情を見せる山田優梨菜。ライバルの高梨沙羅とは同学年だ。あどけない表情の奥に、強い意志を宿している。
1月21日、ソチ五輪ジャンプ女子の最後の日本代表選手が発表された。
3人目に選ばれたのは、長野県の白馬高校2年生、山田優梨菜だった。苦しみ抜いた中で、つかんだオリンピックである。
長野県小谷(おたり)村に育った山田は、小学生のときにジャンプを始めた。6年生のとき、蔵王で行なわれたコンチネンタルカップで初めて国際大会に出場。
'12年1月には、ソチ五輪の代表に選ばれている伊藤有希、高梨沙羅、現在はカナダ国籍で活動する田中温子とともにジュニア世界選手権の団体戦で金メダルを獲得している。中学3年生のシーズン後半からワールドカップ遠征メンバー入りを果たし、'12年12月のソチでのワールドカップでは日本勢2番目の成績をあげ、着実に前へと進んでいた。
順調な歩みが暗転したのは'13年1月のことだった。練習で負傷し、左膝靱帯部分断裂の重傷を負ったのだ。当時をこう振り返っている。
「1カ月くらいは何も考えられない状態でした。オリンピックまで1年切っていたこともありまして、不安でしかなくて、また飛べるのかとか、また世界で戦うことができるのかとか心配ごとしか考えられなかったです」
「時間」を理由に手術を避けた五輪への強い意志。
ようやく前を向けるようになると、「辛かった」と振り返るリハビリを経て、同年5月下旬、ジャンプを再開した。手術はせず、膝のまわりに筋肉をつけることでカバーする方法を選んだ。あえて手術に踏み切らなかった理由のひとつに、「時間」があった。昨夏、山田はこう語った。
「手術をした方が時間がかかるということがありました。時間は余っていないと思うんです」
オリンピックまでの残り時間を考えてのことだった。そこにオリンピックへの強い気持ちがうかがえた。
6月下旬に参加した合宿などで評価され、海外遠征のメンバーに戻ることができた。グランプリ開幕戦では、自己最高となる10位。9月には初めての表彰台となる3位に入り、全日本スキー連盟の定めた代表選考基準をクリアした。
復帰したてにもかかわらずの好成績の理由に、「気持ちの部分の変化」をあげた。