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「もういいです、悲劇のヒーローは」
斉藤和巳が引退を決めた、“0と1”。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byHideki Sugiyama
posted2013/11/25 10:30
2006年のプレーオフ、王貞治は闘病でベンチにはいなかった。「監督の待つ福岡に戻ろう」というのがチームの合言葉だった。
インタビューは午後、練習終了後とのことだった。
リハビリ組が練習している福岡市・西戸崎の室内練習場は、アクセスが悪い。その日、朝イチで動き始めても東京からだと到着は昼前後になりそうだった。そのため、広報担当者に昼過ぎにうかがうと伝えると、練習前にきてくれないかと頼まれた。斉藤和巳はそういうことを嫌がるから、と。
つまり、こちらの都合のいい時間に行き、インタビューだけしてさっさと帰るというような取材の仕方は斉藤が不愉快に感じるということだ。
昨年3月――。2008年以降、実戦登板から遠ざかり、斉藤のリハビリ生活もすでに5年目に入っていた。あれだけの投手が、投げられなくなった。今、どんな思いでいるのか。それを聞きたかった。
広報の申し出によって、前泊を余儀なくされた。しかし今にして思えば、その申し出こそが斉藤のそのときの気持ちを象徴していた。
その4年間、彼はまぎれもなく「日本のエース」だった。
軽くウエーブのかかった栗色に染まった髪。オレンジの蛍光色のトレーニングシューズ。そして、ギリシャ彫刻を思わせるような精悍な顔立ちと、身長192cmの圧倒的な肉体。リハビリ組を中心とした三軍練習場の中にあって、その存在感と緊張感は明らかに異質だった。
「正直、嬉しいという感情はないですね。そこでよかったと思えるようならユニフォームを脱いだ方がいい。競争の世界ですから」
それが前年、所属する福岡ソフトバンクホークスが日本一になったときの感想だった。斉藤はまだまったくあきらめていなかった。
「僕の中で1パーセントの可能性というのはないんです。ゼロか100か。だから100ですね」
'03年から'06年の4年間、「日本のエース」という呼称がもっともふさわしかったのは、松坂大輔でも、ダルビッシュ有でもなく、斉藤だった。
'03年に当時のプロ野球新記録だった先発登板16連勝を打ち立てるなど、リーグで18年振りとなる20勝を挙げ、沢村賞を受賞。また、西武のエース松坂と3度投げ合い、いずれも勝利するなどここ一番でも滅法強かった。