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<チリ代表を変えた指揮官> 奇人ビエルサと攻撃絶対主義。
text by
藤坂ガルシア千鶴Chizuru de Garcia
photograph byGetty Images
posted2010/06/20 18:00
その指揮官ビエルサも、今大会最も特異な監督の1人だろう。
奇人の熱に煽られ、赤い旋風が起きようとしている。
2008年10月16日。チリの首都サンティアゴ発アルゼンチン・コルドバ行きのフライトで、飛行機が着陸態勢に入る直前、機長からアナウンスがあった。
「これから機体はゆっくりと下降して行きます。到着地コルドバの天気は曇り……」
お決まりの台詞に耳を傾けている乗客は少ない。だがやがて、機長の声のトーンが興奮気味にやや高くなったとき、誰もが注意を引かれずにはいられなかった。
「そして、今日のこのフライトにご搭乗の特別なお客様、マルセロ・ビエルサに挨拶をしないわけにはいきません。チリのサッカーを立て直し、我々に栄誉を与えてくれたマルセロ、本当にありがとう」
機長は、前夜に祖国チリの代表が成し遂げた快挙に、身も心も感激に浸っていた。恥ずかしがり屋のビエルサは、アナウンスを聞いた乗客から拍手喝采を受けても、表情を崩さず、座っていたシートにさらに身体を埋めた。W杯予選第10節で、チリは公式戦で初めてアルゼンチンを下した。その大金星が、ビエルサを国民の英雄に仕立て上げたのである。
サッカーの枠を超え「偉人」としてチリで認められた監督。
自他共に認める「サッカーの虫」ビエルサは、生まれ持った探究心と執着心から「ロコ」(奇人)と呼ばれる。独特のポリシーに基づいたサッカー理論と指導法でチリに革命を起こし、南米予選ではブラジルに次ぐ2位の成績で12年ぶりの本大会出場権を獲得してみせた。この「ロコ」は、今やチリにおいて「最も愛されるサッカー人」だ。正確には、サッカーの域を超えた「偉人」扱いされていると言っていい。大学での講義や、企業家たちを集めたセミナーに招待され、そこで語る言葉のひとつひとつに、感嘆の声と惜しみない拍手が贈られる。
'92年に、アルゼンチンの名門ニューウェルス・オールドボーイズの監督としてチリを訪れた際、この国から溺愛される未来を予見していたようなコメントを残している。
「アルゼンチンのサッカーファンは、応援するチームに人生を投影する。チームが勝てば私生活でも幸福感に満ち溢れ、負ければ日常生活に支障を来すほど落ち込む。つまり、勝つか負けるかが非常に大きなテーマとなり、その重圧は最終的に監督にのし掛かる。そして、プレッシャーの渦に巻き込まれるうちに、監督は私生活でバランスを失う。だから私は、敗戦がトラウマを引き起こすことなく自然に受け入れられる、もっと平穏なサッカー界で指導したいと思っている。それはわずか2カ国、スイスとチリのことだ。スイスでは、チリと同様、サッカーはサッカーでしかない」