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<甲子園の監督力に学べ!> 育てるチカラ。 ~教え子・井上力が語る蔦文也(池田)~
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byTamon Matsuzono
posted2011/07/15 06:00
いのうえちから/1968年生まれ。日体大卒業後、徳島商業監督を経て、'10年より穴吹高校野球部監督
弱点さえも強みに変えてしまう池田の“回復力”。
「内野の人たちが塁間より短く詰めてくれて、ここまではがんばって放れと。その代わり、ピッチャーとは約束しましたよ。投げられないぶん、捕ることだけは誰にも負けない、抜けたと思えるような打球でも捕るからなって。だから、結果的にはマイナスよりもプラス面のほうが多かったかもしれない」
その頃の池田は、弱点さえも一瞬にして強みに変えてしまうような、ある種の回復力を備えていた。その証拠に、池田は井上が3年生になった'86年には春夏連続で甲子園に出場し、春は3度目となる日本一の栄冠を勝ち取った。
ただし蔦も、最初からそこまで打撃に偏っていたわけではない。ある時期までは、スパルタ方式の特訓を課し、教科書通り、送りバントなどの手堅い野球を実践していた。
ところが名家出身の蔦は、元来、甘えん坊で大ざっぱなところがあり、そうした細かいことが何より苦手だった。そのためサインを出しても、しょっちゅう間違えたり、相手に見破られたりしていた。井上が証言する。
「僕らの頃もたまにスクイズを出すことがあったんですけど、それまでデーンとベンチに寄りかかってるのに、急にオドオドしながら体のあちこちをさわり始める。ほんと、そんな感じなんですよ。そら、ばれますよ」
'82年夏、蔦が監督生活31年目にしてたどり着いた境地とは?
転機は、'81年秋だった。四国大会の初戦で高知代表の明徳義塾と対戦した池田は、スクイズを2度も外され、0-1で敗れた。小心者だった蔦は、ここぞという場面になると練習もしていないのに小細工に走り、墓穴を掘ることがよくあった。
明徳に敗れた蔦はその試合を終え、ようやく開き直った。性に合わない細かい野球を捨てて、自分が好きな打ち勝つ野球をとことん追求し始めたのだ。
そうして'82年夏、徳島大会を圧倒的な打力で制した池田は、'74年春、'79年夏に続いて、3度目となる決勝戦の舞台に立つ。決勝戦当日の朝、蔦はミーティングの席で、まるで選挙演説でもするかのように抑揚をつけ、愛嬌たっぷりにこう言った。
「みなさんよろしゅうお願いします。私を日本一の監督にしてください!」
監督生活31年目にしてたどり着いた境地が、これだった。
指揮官が素の自分をさらけ出したことで、選手たちからも変な力みが消えた。池田は決勝戦も広島商に12-2と大勝。蔦は初めて全国の頂点に立った。