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駒野友一 「サイドに生きる男の誇り」 

text by

槙野仁子

槙野仁子Yoshiko Makino

PROFILE

posted2007/04/05 23:26

 駒野は本来、ジーコ時代しかり、所属のサンフレッチェ広島しかり、右サイドが本職である。左サイドにはアレックスを筆頭に、Jリーグ内を見渡しても専門家は少なくない。指揮官の高い要求と激しい競争の中、駒野が代表で居場所を確立しているのはなぜなのか。

 振り返れば、駒野は各世代の代表に名を連ねてきた。'01年にはU-20日本代表としてワールドユース(アルゼンチン)を経験。'04年にはアテネ五輪。'06年にはドイツW杯に出場した。サンフレッチェ広島に入るまでの経緯も含め、経歴はエリートの香りを漂わせる。

 1981年7月25日、和歌山県海南市に駒野は生まれた。小学校に入学すると周囲に勧められ、地元で1、2を争う大野JSC(サッカースポーツ少年団)に入団した。当時、大野JSCで指導にあたっていた兒島昭人氏は、「入った当初は、目立った選手ではなかったと思うんやけど、キックの正確さは当時から光るものはありました」と、ある出来事を回想する。駒野が小学4年生の時に出場した試合でのこと。駒野は試合開始の笛が鳴ると、いきなりセンターサークル付近から40m級のロングシュートをゴールに叩き込んだ。

 「そうとう正確なキック力ですわ。高学年、中学生レベルでもいけたんとちゃいますか」

 周囲よりも抜きん出ている技術は数々の指導者の眼に触れた。関西トレセン選手に選抜されると、Jリーグ下部組織のスカウトの眼にもとまり、サンフレッチェ広島ユースへ進んだ。そして― '00年にはプロ契約を結ぶ。

 駒野の順調な成長は、才能もさることながら、人並み外れた努力も大きかった。

 駒野のことをよく知るサンフレッチェ広島ユース三矢寮・寮長の稲田稔氏はこう話す。

 「休みの日は、みんな、市内に遊びに行く中、ひとり寮に残って運動公園で練習をしとりましたね。また、トップチームの試合のビデオが毎試合、寮に届けられるんですが、それを一日中見て自分なりに研究してましたよ」

 小学生時代から「どんな悪天候でも練習を休むことはなかった」(兒島氏)駒野の練習への姿勢は周囲に認められていたが、広島ユースに進んだあと練習熱心にさらに拍車がかかっていた背景には、こんな出来事があった。

 サンフレッチェ広島ユースへ進路を決めた年、駒野は父親の不幸に見舞われた。当時、地元から通えるガンバ大阪ユースへの誘いもあり、地元高校進学への話も持ち上がるなど進路を白紙に戻すことを周囲から促された。

 それでも駒野の意志は変わらなかった。

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