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駒野友一 「サイドに生きる男の誇り」
text by
槙野仁子Yoshiko Makino
posted2007/04/05 23:26
「高校選手権の憧れもありましたけど、やっぱりプロへの近道を考えたらユースだと。広島は最初から声をかけてくれていましたし、考えは最後までかわりませんでした」
稲田氏はこう語る。
「本人は、残された母親や兄弟のこともあって自分が支えなければという思いがあったのでしょう。サンフレッチェ広島でしたら全寮制で負担がかからないし、1日も早くプロになれる、試合に出られる可能性があるチームとして広島に決めたのでしょう」
駒野はプロとなって初任給を手にした日から、今日まで欠かさず実家の母親の元へ仕送りをしている。弟の大学進学の際も学費は全部負担するなど、十代の頃から一家の柱として「家族を支える責任感」を身に着けていた。
膝の重傷、失明の危機……。いくつもの試練に直面した。
真摯に取り組み着実にステップアップしていった。一方では試練もつきまとった。
アテネ五輪まであと1年と迫った'03年8月には、左膝前十字じん帯を断裂。その影響で身体に想像以上の負担がかかり同年9月には深部静脈血栓症いわゆるエコノミークラス症候群が発症した。'04年のアテネ五輪では、グループリーグ最終戦のガーナ戦で左鎖骨骨折。そして、その1カ月後、過労やストレスによって誘発される「ぶどう膜炎」に襲われ、失明の危機を味わった。
特に駒野に「サッカーへの気持ちが薄れた」とまでのショックを与えたのが左膝前十字じん帯断裂の怪我だった。
(以下、Number675号へ)